「反緊縮」の理論と運動を考える     —MMT理論の問題点

「社会主義」(社会主義協会) 2019年10月号所収

                               北村巌

 筆者はこれまで世界経済情勢分析の論考において、世界的に労働者階級の利害から資本側の「財政緊縮政策」に対抗した反緊縮の闘いが重要な意味を持ってきていることに何度か言及してきたつもりである。日本においても「反緊縮」をどのように理論化するか、政治運動(政策闘争)的に展開すべきか議論が始まっている。これを深めていくことを目的に論点の整理を行っていきたい。


1. なぜ世界的に財政赤字の累増と緊縮政策が繰り返されているのか

(ア) 財政赤字累増は現代資本主義の現象
国家や地方政府の財政赤字累増は、現代の先進国(帝国主義国)共通の現象である。特に米国の大量金保有を担保とした為替レートの固定相場制であったブレトン=ウッズ体制が崩壊して、金融経済の一体化が進んだ1970年代以降に際立ってきた現象であることに注目する必要がある。ブレトン=ウッズ体制では各国間の資本移動を自由にさせないことで為替相場を維持していたが、その崩壊によって各国間の資本移動を規制する必要がなくなり、資本移動が原則自由となって、金融経済の一体化が進んだ。このことによって、財政赤字のファイナンスは国内資金量の制約を受けなくなった。国際金融市場を通じて各国における国債市場が発達していった。各国の国債市場間では主にインフレーション期待値などのマクロ経済状態の違いを織り込んだ裁定が働き、金利の期間構造も国際化していく動きが強まった。
このことは特に基軸通貨であるドル建ての無リスク資産である米国の国債(特に長期債)の大量発行を可能にした。1980年代にはとりわけレーガン政権の財政赤字拡大政策(高所得者への減税と軍事費の増加)によって、米国経済は大きな需要超過経済となって国際収支上の経常赤字も膨らみ、財政赤字の拡大と相まって双子の赤字と言われるようになった。これは裏側では輸出志向の経済体質を持っていた日本やドイツの経常黒字と資金余剰を創り出した。2000年代に入るとこれに中国が加わり日独を凌駕するようになった。米国の財政赤字は国内経済だけでなく世界経済への需要創出効果を持ってきたわけで、それによって世界経済の需給バランスを維持してきたとも言いうる。
(イ) 経済成長の鈍化と慢性的需要不足
60年代に比べ、経済成長が鈍化・停滞し始め、不況克服、とりわけ金融危機時には積極的なマクロ経済政策がどこでも取られた。そこで生じた財政赤字は好況時にも解消されることなく、再び次の危機を迎えるということの繰り返しの中で累増してきた。好況時には企業の設備投資つまり実物資本の蓄積が進み長期資金を吸収したが、ほとんどの国で民間部門の所得の増加がもたらす税収増は財政収支を均衡させるには至らなかったのである。これは好況時おいても民間部門では慢性的な需要不足が続いてきたことを意味している。
この慢性的な需要不足を補う手段は主に2つであった。一つは財政支出や減税による国内需要創出、もう一つは発展途上国への貸付の拡大や直接投資の拡大によって途上国での需要増加を作り出すことである。後者は80年代には中南米諸国の累積債務問題深刻化となって、特に貸付拡大は半ば頓挫したが、直接投資の拡大は主に米国企業や経常黒字国である日本やドイツなどの企業がその役割を担う形で進行している。
(ウ) 貨幣資本の過剰
資本が利潤を全て消費してしまわない限り、利潤マイナス資本家の消費だけ資本蓄積は進行する。それは個別企業レベルで言えば、内部留保額ということであるし、マクロレベルでは企業部門の貯蓄や資本家の貯蓄増加として認識される。場合によっては労働者階級の貯蓄も金融を通して資本蓄積となる。しかし、経済成長の停滞によって、ここで生まれる資本蓄積に見合う額の実物資本の蓄積を必要としなくなった。そこでその余剰部分を資金として吸収するのは財政部門であったり労働者など個人の借金(住宅ローンなど)の増大であったりするわけである。これが公共投資や住宅建設や耐久消費財などの需要形成を行なっている。つまり、それが裏側で民間部門における貨幣資本の(相対的)過剰を形成している。この事情は実は反対側から見ると、そうした財政や個人による資金の吸収とそれによる需要がなかったら、資本は過剰資本となるだけの利潤を上げられていないということにもなる。つまり資本の利潤率を支えるための仕組みの中核に財政赤字が据えられているわけであるし、それなしに実現できない利潤を上げることで資本主義をかろうじて維持しているのだとも言いうる。
貨幣資本というのは、貨幣の形態をとった資本としてその自己増殖が目的となる。たとえば、株式、債券などの有価証券や預金がこれにあたる。貨幣資本の担い手は、最終的には個人であるが、間接的には銀行などの金融資本や年金基金などの機関投資家である。金融資本や機関投資家は個人が所有する資金を取り入れ、これを金融取引によって増殖させようと機能とする。これを経済全体の資金循環という観点で捉え返してみよう。資金循環表は経済主体間の資金取引を種類別に記述したものである。当該期間内の取引(フロー)と期末の取引残高(ストック)の数値が計算されたものであるが、ほとんどが中央銀行の統計として発表されている。資金循環表は貨幣資本の状況を把握する良い手段である。日本の場合、資金循環表によると、個人金融資産は1834兆円(2019年3月末)であり、この資金は直接的に株式や債券を保有しているほかに、銀行への預金、年金や保険の保有により、金融資本や機関投資家の運用資金を供給しており、これによって金融資本や機関投資家はさらに資金の最終需要者に対して貨幣的な形態での資本を提供している。より具体的には株式、債券などの証券、あるいは直接的な貸付という手段による。
では何をもって貨幣資本の「過剰」を定義すべきなのだろうか。貨幣資本は、本来は生産的な資本、すなわち生産手段の所有を通し、労働力を利用することにより利潤を獲得する資本の貨幣的な形態であった。しかしながら、いったん貨幣的な形態をとった資本は擬制資本であり、独自の運動法則を獲得する。より具体的には期待によって価格付けられ、方向性を与えられる存在になるのである。現代においては、資産価格は当該資産の、他の資産との裁定関係においても決まってくる。この貨幣表現でのマクロ的な総額が、生産的資本に投ぜられた価値を大きく上回ってくるとき、それは「過剰」を形成していると認識できるのではないだろうか。
(エ) 実物資本蓄積の鈍化要因
先進各国の経済成長力が落ちてきた要因としては、物質的な消費の増加に限界がきているという事情もあるだろう。最終的な消費者の段階では物質的な消費活動は一人当たりでもまだまだ増加していると思われるが、その中身は変化しているし、製造業など物質的な生産分野で資源の消費は節約され上流部門の生産活動に影響を与えている。総じて先進国では製造業の割合が下がり、産業構造はサービス化が進展するポスト工業化が進行している。人口は世界全体ではまだ増加しているし、その限りで物質的な消費も増加するし、賃金引き上げや財政を通じた再分配によって労働者階級や低所得者層の可処分所得が増加すれば、個人消費が増加する可能性はある。
サービス部門は概して労働集約的である。経済のサービス化にともなって、機械装置などをあまり必要としない部門の増加が起き、これまでのような実物資本の蓄積を必要としなくなっている可能性も指摘できるだろう。このことは貨幣資本の過剰を生み出す要因にもなっている。

2. MMT理論は有効か

(ア) MMT理論は現実の後追い
MMT理論は有効であるか、というよりもMMT理論は過去の先進国共通の財政赤字累増の後追い的な正当化の側面をもっていると言える。MMT理論はインフレが高進しない限り財政赤字を中央銀行による貨幣の供給でファイナンスしても問題はないという主張を行う。現実に即してみれば、1990年代以降、日本をはじめ多くの先進国で大幅な金融緩和が行われ、ふんだんな貨幣供給と財政支出や減税による経済成長の刺激策がとられてきたが、インフレの高進どころかデフレ懸念に苛まれてきた。その意味でMMT理論は「有効」と言えるかもしれない。しかし、それは最終的解決ではなく、あくまでその場をしのぐための方策として有効なのである。金融危機状況において、流動性のふんだんな供給が恐慌を緩和するし、そこからの景気の立ち上がりに財政支出が役割を果たすことはすでになんども経験されていることである。ただし、危機状況を脱した経済状況において、一般的に財政支出の増加が経済成長を生むかどうかについては疑問なしとしない。財政支出の中身によるわけであって、単に積極財政が成長加速的であるとは言えないだろう。
(イ) MMT理論の意義と限界
MMT理論の論者の多くは、リベラルな観点からの財政支出の適正化や再分配の復活・強化を主張している場合が多く、そうした政策は、労働者・弱者の利害に一致する改良的な要求でもある。ただし、論者の多くは、そうした政策が所得格差拡大によって個人消費が伸びていない現状を改善し、労働者の消費を伸ばすことで経済成長が図れるといった文脈で語っている。これ自体は論理的に正しいが、資本主義の不朽化を防いで「良い」資本主義を発展させるという観点からの議論なのである。
MMT理論は資本の側からの財政均衡主義的なイデオロギーをまとった緊縮政策、労働者階級や社会的弱者を犠牲にするのに対抗する理論としての役割を果たしているが、同時に資本主義延命の政策提案でもある。現実の当面の景気対策、特に失業の増加を防ぐ策として積極的なマクロ政策は必要であるが、それを労働者政党が理論として受け入れる必要はない。
財政赤字の累増、つまり財政債務の巨大化は、最終的な負担者が「誰」になるのかを先延ばしにするという性格を持っている。MMT理論はこれを誰も最終的には負担しないと想定するが、これは誤りであろう。資本側は常に自らの側ではなく、労働者階級にその負担を求めようとする。だから資本の表面的な利潤は確保しつつ、そのツケをとりあえず財政に回しておく、そして最終的には労働者に負担させる大衆増税や福祉などの支出削減などの緊縮政策で辻褄合わせを図るのである。それが時折現れる資本側の緊縮政策である。これに対抗するために労働者階級はMMT理論を必要とするだろうか?経済成長を一義的に目標と考えることは、逆立ちした議論である。国民生活の向上が目的であって、経済成長はその一つの手段に過ぎない。資本主義擁護の理論の特徴は、貨幣経済の増大を目的と考える逆立ちした議論になっていることだ。
(ウ) MMT理論で危機は回避できるか
MMT理論では財政赤字の累増はインフレにならない限り問題ではないとする場合が多い。確かに米国ドルが基軸通貨であり続ける限り、米国はインフレにならない限り巨額の財政赤字状態を継続することは可能だろう。日本も経常収支黒字をある程度安定的に保てるうちは財政均衡を図る必要はないだろう。しかし、リーマンショック後、欧州では全く違う事情が現れた。いわゆる欧州ソブリン危機である。欧州ではリーマンショックをきっかけに金融市場においてリスク回避性向が急激に高まった結果、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどすでに格付けが低くされていた国債の利回りが急上昇、つまり価格が低下して、新規の債券も発行しにくい状況が生まれた。利回りが急上昇すれば、高金利がさらに負債を増加させる悪循環に陥る。
MMTの論者は、欧州ソブリン危機は、危機に陥った諸国がユーロ圏に属し自国通貨を持たなかったこと、ヨーロッパ中央銀行が適切に金融緩和を行わなかったことが原因であると指摘するかもしれない。そうした特殊性があったにせよ、世界的に過剰な貨幣資本を抱えたために起きる金融的な拡張とリスク回避行動の繰り返しが、金融危機を準備し、また増幅する作用を持っている以上、どんなに財政赤字が巨額になっても国債は無リスク資産であるとの前提を持つことはできないのではないだろうか。
日本の事情を考えると、人口の高齢化の進展によって生産力に対して消費需要が超過し、貿易収支が赤字となってきている。これがさらに拡大して経常収支黒字が大幅に縮小、あるいは赤字に転じた場合、これまでの円資産が国際的なリスク回避先といった状況は変化せざるを得ないだろう。経常収支が黒字であるということは国内の貨幣資本余剰で財政赤字をファイナンスできていることを意味するが、その条件が失われれば国外の資本に穴埋めを依存することになり、国際金融市場の状況に振舞わされることになるわけである。
その下で超金融緩和を続ければ円安に起因した慢性インフレ経済に変化するリスクがあり、積極的なマクロ政策の発動は困難になっていく。資本側は労働者にツケ払いさせる緊縮政策を強く求めてくるだろう。

3. どのような政策目標を掲げるべきか

(ア) 「反緊縮」は当然
資本側が労働者側にツケを払わせようとする緊縮政策に対して、労働者が反対することは当然である。年金の支払い縮減や消費税などの大衆増税、福祉予算の縮小といった緊縮政策が打ち出されている局面で、反緊縮のスローガンを掲げることは全く正しいと筆者は考える。反緊縮での共闘の広がりは歓迎し期待すべきであろう。
ただし、我々の「反緊縮」の立場は、財政拡張主義というわけではない。これは「反独占資本」が自由競争礼賛だったり、「反合理化」がラッダイトだったりしないのと同様である。階級利害の対立点として緊縮政策に反対する視点が重要である。
(イ) 資本に負担求める政策の打ち出しを
資本側が労働者にツケ払いさせようとするのに対抗して資本側にツケ払いを求める政策要求もまた大切なのではないか。所得税、相続税の累進強化、法人税の再強化、給付付き税額控除の導入などの税制による再分配、財政支出を労働者階級や社会的弱者の方向に変化させるなどの政策が社会民主主義的な改良政策として必要である。
所得税に関してみると、80年代以降、先進各国で70年代までの超過累進課税制度を税率の傾斜を大幅にフラット化し、高額所得者に対して大減税を行ってきた。これは貨幣資本の過剰を作る原因の一つでもあった。高額所得者は減税されてもそれだけ消費を増やすことなく、貯蓄、つまり貨幣資本の蓄積に多くが回ったからである。累進性の再強化が必要だ。また、給付付き税額控除の導入によって、すでに所得税を支払っていない低所得者の所得を増加させることも行うべきである。
相続税はすでに再強化の方向に入っているが、より超富裕層に負担を求める形にしていくべきだろう。そのためには海外への資産移転などで相続税を回避しようとする動きへの実効ある対抗策も必要になる。
法人税は大幅に税率引き下げを行ってきたが、その理由に持ち出されるのが外国との比較である。いわば、法人税引き下げ競争のようなものが繰り広げられてきた。しかし、法人税引き下げで対内直接投資は増加したのだろうか?国内企業の海外への生産拠点移動をひきとめられたのだろうか?
(ウ) 財政支出の改革
国においても地方においても財政支出に関しては、福祉、医療、教育といった分野への振向けが必要であろう。ただし、一般的に公共投資を否定することは誤りであると考える。まずは軍事費の削減に取り組むべきだ。公共投資はその内容で吟味すべきであることは当然だが、初めから削減ありきではなく、必要な投資の計画を策定した上で進捗を景気状況に応じながら調整していく工夫はあって良いのではないか。
財政支出の優先順位は効率性ではなく、国民生活の必要性に立脚していくこと、それを運動としていくことが大切なのではないだろうか。

(ノート)貨幣資本の相対的過剰について
https://note.com/socialist/n/nfda7d31c07c1

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