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深夜のショッピングモールでブルーハーツを叫ぶ -『君が世界のはじまり』評-

青春映画の変奏

2010年代後半あたりから、青春映画の描かれ方が変わってきているように思う。少しの「あきらめ」の中で、それでも今を肯定して生きるように。

2019年公開の『殺さない彼と死なない彼女』(間宮祥太朗 × 桜井日奈子)では、YouTuberによる劇場型の殺人事件が起きた高校で、登場人物たちが無邪気に恋愛をする様子が描かれた。

(※このnoteは全体的に重大なネタバレなので見てない人は注意※)
あまりに無意味かつ唐突に殺される”殺さない彼”と、彼を失っても彼を夢想して前へと歩き出す”死なない彼女”には、いまを肯定して生きるコンサマトリーな、絶望の国の幸福な若者たちの姿を見ることができる。


君が世界のはじまり

現状を強く肯定する青春映画として、本作『君が世界のはじまり』は2020年の重要な一作となるだろう。
2020年7月31日公開、ふくだももこ原作・監督の映画である。
ふくだももこは1991年大阪出身。本映画の原作であるデビュー作「えん」ですばる文学賞佳作を取る。「えん」と「ブルーハーツを聞いた夜、君とキスしてさようなら」を脚本(脚本家:向井康介)として合わせたのが『君が世界のはじまり』である。※1

あらすじはこうだ。

希望と絶望を爆発させる夜が幕を開ける──。
大阪の端っこのとある町で、高校生による父親の殺人事件が起きる。その数週間前、退屈に満ちたこの町では、高校生たちがまだ何者でもない自分を持て余していた。授業をさぼって幼なじみの琴子と過ごすえん、彼氏をころころ変える琴子は講堂の片隅で泣いていた業平ナリヒラにひと目惚れし、琴子に憧れる岡田は気にもされず、母親に出て行かれた純は東京からの転校生・伊尾との刹那的な関係で痛みを忘れようとする。皆が孤独に押しつぶされていたその夜に、事件は起きた──。

大阪の郊外で、彼ら/彼女らは、退屈ではあるものの平和な日常をおくっているーように見えるー。見えるというのは、高校生たちは表向き平和に過ごしながらも、内面に様々な葛藤を抱えているためだ。松本穂香演じる主人公のえん(縁/ゆかり)は観察者のような視点で日々を送る(後述するが、彼女には温かい食卓を囲む家族が存在する)※2

本作の特徴は、繰り返し、異なる時間の、しかし同じ風景を歩く彼らを見せられるところにある。

通学路 工場の貯蔵タンク ショッピングモール 講堂

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"外部なき世界"は、高校生たちをとかく振り回しつつ、彼らに「ずっとこの街にいてはいけない」という気持ちを起こさせる。
その気持ちを加速させるのが、彼らの”家族”だ。
業平・純・伊尾は、”コミュニケーションの取れない父を持つ子”として描かれる。

業平(小室ぺい)。母親は彼を生んですぐに家を出ていき、彼は精神を病んだ父と二人で暮らす

純(片山友希)。母親がやはり家から出ていき、母親の代わりをこなす父を恨みつつ暮らす

伊尾(金子大地)。義理の母親と関係を持ち、それを紛らわすように純とも関係を持つ。

対して、えん・琴子は”頼れる母を持つ子”として描かれる。
えんの親友・琴子は高校生ながらも煙草を吸い、経験済で、授業にも出ない脱社会的な存在に見えるが、しかし”頼れる母を持つ子”である。
えんは、”頼れる母”と頼れる父が存在し、かつ成績も学年トップという、他の登場人物とは一線を画すハイスペックぶりを持つ(しかし彼女はどこか孤独である)

通学路を行き来し、ショッピングモールでダベリ、講堂でサボるというルーティン。「悪いことしたやつはあのタンクの中に入れてしまえばいい」と工場の貯蔵タンクを朝晩眺めながら。

そんな”外部のない世界”の中で、THE BLUE HEARTS 「人にやさしく」の

気が狂いそう

この歌詞を繰り返しながら、昼間のショッピングモール(時にはフードコート、時には従業員用階段、時には駐車場で)で彼らは時間を過ごしていくのだ。※3

ショッピングモールは郊外の象徴であり、彼らの親の象徴でもある。ー伊尾の義理の母はこのショッピングモールで服を買い・初デートをし・いまは働いているー

舞台の中盤

”コミュニケーションの取れない父を持つ子”は危ういバランスを保ちながらも、物語は中盤で高校生による父親殺人事件が起こる。

”あいつ”が学校にいなかったらどうしよう
彼らは学校に急ぎ、業平・純・伊尾の姿を探す。

誰が父親を殺したのか、ぜひ映画館で見てほしい。

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”外部なき世界”の内部のはじまり

この事件をきっかけに、彼らの"外部なき世界"は揺るぎだす。

家族に脅かされているのは自分たちだけではなかったこと

関係を見通すなんてできないこと

自分たちはどうしようもなく子供であること

”外部なき世界”を内奥から壊すように、舞台は深夜のショッピングモールへと移っていく。フードコートの机を踏みつけ、モール(通路)でサッカーをし、催事場でTHE BLUE HEARTS 「人にやさしく」を熱唱する。

しかし昼間と違い、夜のショッピングモールで歌われるのは”気が狂いそう”ではなく

ガンバレ!

”外部なき世界”から抜け出すのではなく、真っ向からぶつかるための檄として、ドラムを叩き、ギターを弾きながら叫ぶのだ。

夜が明け、学校。
その檄に応じるように校庭の水溜まりには”世界の始まり”を示す青空が映るのである。

えん・松本穂香について

ここまでほぼ、えん・松本穂香について触れていないが、この映画においてえんは主人公でありつつもも、その内側が見えにくい独特なキャラクターを持っている。

正確にはえんだけが、他の人物とは抱える問題が異なっているのだ。
家族の問題ではなく、自分を自分らしく(”えん”として)同定してくれる誰かを探している。

えんというのは、彼女の本名(縁/ゆかり)ではない。
幼馴染の琴子から「あんた”ゆかり”っていうより”えん”っぽいわ!」となんとも雑につけられたあだ名である。

通常であれば、”えん”という名前を呼んでくれる恋人を見つけるのが青春映画であるが、しかし劇中では業平からの告白を未遂で押さえつけ、「えんって呼んでいいのはあの人だけだもんね」と琴子との関係をフィーチャーさせている。

これは何を表しているのか。

登場人物たちが家族の葛藤を抱える中で、鑑賞者は松本穂香を通して、えんと琴子の出会い直しを見せつけられるように思う。

”外部なき世界”の内側に潜ることで家族と向き合う登場人物たちとは一線を画し、えんは”外部なき世界”を”外部なき世界”として繰り返し、琴子との出会い直しを通して『君が世界のはじまり』(My name is yours.)であると現状を肯定するのではないだろうか。


(書き手 もっち @mocchi2020


※1
向井康介脚本の『もらとりあむタマ子』は前田敦子主演で、中の人の人生ベスト級映画なのでそちらもお勧めしたい。

※2
大阪が舞台とされるが、実際の撮影は栃木でされたらしい。
劇中のショッピングモールも実際に存在する。

※3 本作では食事シーンの描写が重要になる。フードコートでの食事、家族との食事。お菓子研究家の福田里香さんの「フード理論」を手掛かりにすると、その食事シーンがまたより味わいを増してくる。以下、フード三原則を紹介しよう。

1.善人は、フードを美味しそうに食べる。
画像の中で、誰かが大きな口を開けておいしそうに食べ物を咀嚼してごくんと飲み込めば、鑑賞者は親近感を持ち、信頼を寄せる。その人物が腹の底を見せたからだ。
また、調理した人も潜在的に、悪人とは見なされない。善人が、それをおいしく腹に収めたからだ。
2.正体不明者は、フードを食べない。
みんなで食事をする場面で、ひとりだけ何も食べないやつがいれば、鑑賞者は怪しんで訝しく感じる。なぜなら、その人物の腹の底が見えないからだ。
例外として食べる場合は「なぜそんなものを?」という常人には理解不能は物質だ。たとえば、ドラキュラが血を吸う、ゾンビが人肉を食らう、というような。
3.悪人は、フードを粗末に扱う。
この場合は、食べても食べなくても、どちらでもいいのだが、誰かがおいしそうに焼けた目玉焼きに吸いさしの煙草をジュッと突っ込んだとしよう。確実に善人には見えない。食べ物を粗末に扱えば、鑑賞者は悪人として認識するのだ。

同じお好み焼きでも、えんの食卓と純の食卓には大きな違いがあった。また、純が父との和解のきっかけとなるのも、やはりお好み焼きである。

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