「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を見てきた。

まずは予告編を見てほしい。

2010 年、自給自足で生活するキリスト教一派の村で起きた連続レイプ事件。
これまで女性たちはそれを「悪魔の仕業」「作り話」である、
と男性たちによって否定されていたが、
ある日それが実際に犯罪だったことが明らかになる。
タイムリミットは男性たちが街へと出かけている2日間。
緊迫感のなか、尊厳を奪われた彼女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う―。

https://womentalking-movie.jp/#

優れた考察やコメントは、すでに各所にある。私は、自分が考えたことを、私のために書き残しておく。

どこか遠くの、まるでファンタジーのような世界でおこった出来事のように見える作品。しかしその実、この映画の中で起こった出来事は、今まさに、私たちが生きている社会の中に、構造的な暴力の問題として存在するのだということを、確固たる現実としてつきつけてくるような、そんな作品だった。

閉鎖的な、ホモ・ソーシャルな空間が支配する村で、女性たちは何世代にもわたって、ありとあらゆる暴力を受け続けてきた。彼女たちは教育を受けることすら許されない。彼女たちの言葉はなかったものとされ、まるで家畜のように、ウシのように、男たちに支配されている。

2日間の話し合いの中で彼女たちは自ら「選択」をする。映画は、その話し合いを中心に進んでいく。

作品の中で名前を与えられた「男性」は2人、もっといえば、身体男性で、性自認も、性的志向も「男性」である人間は、たった一人しか出てこない。書記のオーガスト。そういう意味で、彼は私と最も”近い”登場人物だ。

白状すれば、私が唯一、感情移入、違う言葉を使えば、共感(シンパシー)を感じることができたのは、このオーガストだけだった。

私の政治信条、思想信条は、フェミニストのそれに近い、と思っている。
近代以降にはっきりと形作られてきた男性中心の社会。すなわち家父長制や、ホモ・ソーシャル、ミソジニー、性暴力の問題。学校で社会科の教鞭をとる人間として、私にできることはできる限りやってきた、と思う。

しかし、私には、彼女たちに「共感」することができなかった。それを許されなかった、と言ってもいいかもしれない。むしろ、「共感できないこと」は、「特権」であった、といった方がよいだろう。

なぜか。

それは、私が「男性」だからだ。彼女たちの恐怖や苦しみを体験したことがないし、これからもないだろう(それこそが特権である)。かたや、なまじ知識だけはあるし、頭ではわかっているのだ。しかし、感覚として、本当には"わからない”のだ。

これは圧倒的な事実として私に迫ってきた。そうか、私は何かをわかった気になっていたが、私は「男性」として振る舞い、「男性」として生きている。そこへの無意識さこそが問題であり、それを気にしなくても済むことが「マジョリティの特権」である。

オーガストは、ホモ・ソーシャルな村社会からかつて家族ごと追放された人間である。「大学へ行ったから」村に戻ってきて、教師をつとめている。
そんな彼だからこそ、女たちの会議に書記として同席することを許された。
彼は極めて自省的にふるまっていたように見えた。しかし彼は、村を旅立つ女たちに、ついていくことを許されなかった。
「あなたの仕事は、村の男たちを教育すること」という使命を託されて。

劇中、彼は一度、何かを――おそらく、「私も連れて行ってくれないか」と――言いかけるが、彼は結局、「なんでもない」といって、口をつぐんだ。

映画は、彼女たちを見送るオーガストの姿を見せながら、旅立つ女たちの行く先に地平線を映し出して終わる。結局のところ、彼もまた、ホモ・ソーシャルな、男性が女性を抑圧する社会の構造に加担する人間に他ならなかった。彼はその責任を負わなければならない。それを示唆するような終わり方だった。

とりもなおさず、それは私自身もそうなのだ。私自身、「男性」という靴を履いている。何よりも、私はそこに自覚的でなければならないし、その靴を脱いで、他者の靴を履くこと(=エンパシー)、その力を自分自身が身に着け、子どもたちにもその力を身に着けてもらうこと。

自分の仕事を、もう一度確認する。


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