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#映画感想文250『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2022)

映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択(原題:Women Talking)』(2022)を映画館で観てきた。

監督・脚本はサラ・ポーリー、出演はルーニー・マーラ、クレア・フォイ、ジェシー・バックリー、ベン・ウィショー、フランシス・マクドーマンド。

ちなみにマクドーマンドはプロデューサーでもあり、彼女がブラッド・ピットのPLAN Bに企画を持ち込んだのだという。

2022年製作、105分、アメリカ映画。

原題はWomenでWomanの複数形なので、直訳すれば女性たちの会話ということになるだろう。「女性だけで話す」という環境、女性だけで話し合いをして何かを決めることができない社会は腐るほどある。議会という話し合いの場にいる女性の割合が少なく、政治的な意思決定の場から女性が外されている社会は決して珍しくないが、日頃、ほとんど意識されることはない。みんな当たり前だと思ってしまっている。だから、たったそれだけのことがタイトルになってしまう。

舞台は2010年代の架空の小さな村。牧畜はしているが、文明から隔絶されているようなところで、彼女たちは生活している。彼らの信仰はキリスト教なので、アーミッシュの村なのかと思ったら、そうではないらしい。

ある朝、女性が目覚めると、下半身に痛みを感じる。太ももに痣があったり、出血が止まらなかったりする。しかし、彼女たちは乱暴された記憶はなく、犯人が誰かはわからない。女性たちが被害を訴えても、被害妄想だとか、悪魔や幽霊の仕業だとか、男たちはそれに取り合わない。女性の被害や痛みに彼らが無頓着であることは今に始まったことではない。信じてもらえないこともよくある話だ。

しかし、事態は急展開する。ある日、犯行前に目を覚まし、抵抗し、犯人を目撃する女性がいたことから、村の男性による犯行であったことが判明する。女性たちは牛用の鎮静剤を打たれ(嗅がされ?)、昏睡状態のなかで強姦されていた。村の女性全員が被害者であるという異常事態。犯人は町の警察に連れていかれ、男たちが村を離れる。その二日間がある種の猶予期間となり、女性たちだけの話し合いが行われることになる。

大変驚いたのだが、この導入部分がおそらく5分もなかった。事件自体は、この映画の本題ではない。あくまで、話し合いをして結論を出す過程が主題なのだ。男性のオーガスト(ベン・ウィショー)が彼女たちの言葉を記録に残す書記係になる。彼女たちは読み書きができず、文盲なのだ。村の男たちは読み書きを学んでおり、明らかに女性には教育の機会が奪われている。(この段階でアーミッシュではないのだな、と気付いた)

まず、女性たちは「何もしない(do nothing stay) 」「残って闘う(fight)」「ここを去る(leave)」という三つの選択肢に対して投票を行う。投票の結果、「残って闘う」「ここを去る」が残る。そして、早い段階で腕力で男性に勝てるはずがなく「残って闘う」という選択肢は除外され、去ることを決める。

いつだって、女性は「赦すこと」を強いられてきた。そうでないと生きていけなかったからだ。しかし、「赦すこと」を自らの意志で選択できなければ、本人が救われることもないし、癒されることもない。

「神がいるのなら、なぜわたしたちはこんなにひどい目に遭うのか」という信仰することの意義まで、彼女たちは話し合っていく。

家父長制の中で生きるしかないと自棄になっているマリチェ(ジェシー・バックリー)は言動が乱暴で攻撃的だ。その理由は彼女や彼女の子どもたちが家庭内暴力の被害者で、母親のグレタ(シーラ・マッカーシー)から「あなたを守ってやれなくて、すまなかった」と謝罪を受けるシーンからもわかる。父親や、あるいは夫の家庭内暴力に晒されてきた女性は傍観していた無力な母親を最も憎む。母親に加害性を認めさせることで、娘を癒そうとするサラ・ポーリー監督の強い意志を感じる。

強姦されたことによって妊娠しているオーナ(ルーニー・マーラ)は、自分自身の知性と強さを信じようとする女性だ。悲しみと怒りを超克し、子どもと生きていくことを決意している。

オーナとマリチェの対立には緊張感が漂う。無力感に絶望しているのはマリチェで、オーナはあきらめたくないと意思を表明する。おそらく、これまでの歴史のなかの女性たちは「マリチェ」だったのだと思う。生きていくために絶望を選んできた、あまたいる、無数の女性たちの象徴なのだ。

そして、オーナは暴力に屈することを是とせず、否と主張し、自分を守るために自立を選ぼうとする、現代女性の象徴であると思われる。

村を出て行くことを決めた女性たちは荷造りをするために家に戻る。それは拍子抜けするほど、あっという間に終わる。彼女たちは何も持っていなかったのだ。(そもそも、女性の私有財産が認められるようになったのはここ最近のことに過ぎない)服と食料を木箱に詰めれば、それで終わり。

荷造りの途中、オーナの妹であるサロメ(クレア・フォイ)は書記係のオーガストから、護身用にと銃を受け取る。ここでサロメはオーガストに「あなたは死んではいけない。男の子たちにちゃんと教えてあげて。わたしたちの記録を彼らに伝えて。そして、また会いましょう」と伝える。オーガストはオーナに恋しており、決してそれが叶わないこと、オーガストが男しかいない村に残ることが、幸福な結末でないことぐらいはサロメにもわかっている。しかし、一緒に行こうとは言えない。村の男である彼を無罪放免、特別扱いすることはできないし、コミュニティに所属している以上、責任の一端は彼にもある。

そして、村の外で生きていくこと、自立できるかどうかに最も懐疑的であったマリチェは、夫に殴られ、顔をぼこぼこにされた状態で戻ってくる。そして、彼女は自分たちに三つの権利があることを涙ながらに語る。「子どもたちの安全な生活、信仰すること、そして考えること」

わたしは最後の「考えられること」「わたしたちは考えているのだ」という言葉こそが、劣位であることを理由に差別されている人々が抱える共通の思いであると感じた。ここ数年で、フェミニストは「マンスプレイニング」や「トーンポリシング」という言葉を発明してきた。それは「わたしたちだって考えているのだから、話を遮らないで」ということを女性の多くが経験していたが、女性たちは繋がれていなかったので、定義することができずにいた。ここ数年で「こんな扱いをされているのは、わたしだけなのかな」という疑問が共有されてはじめて生まれた言葉だからこそ「あるあるじゃん!」とみんなが思って、実際に使い始めた。

そして、村の女性たちは、本当に村の外に出て行く。その姿は質素ながら、神々しく、宗教的に撮られている。

本作は基本的に「話し合い」で進む。書記係であるオーガストが話し合いの方向を主導しようとしたときに、「おまえはただの書記係なんだから、黙ってろ(わきまえろ)」というシーンは、本作の核心であったと思う。男が入ってきたら意味ないのよ、という。

これまで男性の話し合いの場に立ち会ってきた多くの記録係(タイピスト)は女性で、その女性たちは壁のように、まるで存在しないかのように黙ってタイプしていた。すぐに口出しをしたオーガストのふるまいとは、やはり対照的であると思う。

ちなみに、オーガストの由来は、ローマ皇帝アウグストゥスで、ラテン語では「尊厳者」を意味するらしい。書記に徹しろと指摘されたオーガストは驚きながらも、「出過ぎた真似をして申し訳なかった」ときちんと謝罪する。まさに彼女たちの尊厳を守り、尊重しようとする人として描かれていたと思う。

地図の読み方、方角の見つけ方をオーガストがオーナに説明するシーンも、象徴的だった。彼が話を終えると、彼女は淡々と礼を述べる。オーナの反応から、オーガストは「君が知らないことを教えられたらよかったのに」と残念そうに言う。オーナは微笑む。男は教える側で、女は教えられる側、そして女は知っていても、わかっていても、知らないふりをすることに慣れている。男は女に「すごい!」と思われたいと思ってしまう。女の方も、男に好意を向けられたら悪い気はしない。それらのやり取りは文化にまで達しており、小難しい話をしていても、その慣習から脱することはなかなか難しい。

あと、牛用の鎮静剤を使って女性を眠らせてレイプしていたのは、比喩ではなく女性を家畜扱いしているということを示し、デートレイプドラッグを想起させる。これって、やっぱり、現在進行形のお話なのだ。

この映画の舞台が2010年であることは、国勢調査の車のアナウンスでわかるのだが、そこで観客は「マジか!」と衝撃を受ける。超最近の過去の出来事に過ぎないと監督は設定しているのだ。「2010年の国勢調査です。みなさんの人数を数えたいので出てきてくださいね~」と。村人は誰も出て行かないが、外の世界には、もうiPhoneだって存在している。そこで流れているのが、The Monkeesの『Daydream Believer』なのだが、何を白昼夢としているのだろうか。村の暮らしは一見平穏そうに見えるだけで現実はそうではない、と言いたかったのだろうか。

監督に対するフランシス・マクドーマンドのコメントが非常に興味深かった。

フランシス・マクドーマンド:
サラのこの作品に対するビジョンに一番驚きました。私は至近距離から撮ったような素朴な作品を想像していたのですが、サラは最初から『これは叙事詩的な大作に仕上げたい。そろそろ女性の物語をスケール感たっぷりに描いても良いはず。撮影も華麗に壮大にシネマティックに撮るべき』と語っていました。そして、それを撮影監督のリュック・モンペリエとともに見事に実現しています。必ずしも美しくなくとも、壮大に撮ることがこの作品の要であり、何よりもそういう壮大さを要するストーリーだったのです。

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確かに、この映画は撮り方によっては、ワークショップのようになってしまっていてもおかしくなかった。「シネマティックに撮りたいんだ!」と監督の野心が見事に達成されている。(舞台にしても面白い作品になると思う)

原作はカナダのミリアム・トウズの小説『Women Talking』で2005年から2009年にかけてボリビアで起きた連続レイプ事件から着想を得たのだという。うーん、やっぱり、結構、最近の出来事なのだと思うと暗澹たる気持ちになる。そして、邦訳がないことを知り、さもありなんという感じ。(本当、英語の勉強は頑張らないとダメですね)

映画鑑賞中は台詞を追うだけで精一杯だったのだが、思い出しながら記事を書いて、言語化していくと、自分でも驚くほど、ボロボロ泣いてしまった。頭の中でぐるぐるしていたことを整理することで、自分の感情を理解することができたりする。映画の中の彼女たちも、話すことで、自分たちを理解することができたのだろう、と改めて思う。

(この記事を書き始めて、すでに3時間が経過している。4,500字も書いてしまった。30分ぐらいで書こうと思っていたのに6倍もかかっているではないか。時間を読めなさすぎである)

蛇足になるが、フェミニズム小説の『ミレニアム』の映画版のリスベット・サランデルを演じているルーニー・マーラとクレア・フォイが一緒に出ていたり、『MEN 同じ顔の男たち』のジェシー・バックリーが出ているのも、また面白い。また、『ノマドランド』でオスカーの主演女優賞を獲ったマクドーマンドがサラ・ポーリー監督を後押しし、支えたことも興味深い。マクドーマンドのようにコンスタントに賞を獲り続ける女優は本当に強いなあ、とも思った。

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