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又三郎と風の又三郎〜吹き飛ばしてほしいもの。


以前にヨルシカの最新シングル「老人と海」、アーネスト・ヘミングウェイの小説「老人と海」について、個人の見解を述べさせてもらいました。


twitterで何人かのヨルシカファンの皆様と繋がれてとても嬉しかったです。これからも時々noteに記事を投稿しようと思いますのでよろしくお願いします!




今回は老人と海より先に発表されていた「又三郎」、そして宮沢賢治の「風の又三郎」について考察していきたいとおもいます。



曲は聞いたけど小説は読んでいないという方、多いと思いますのでぜひご一読ください。






1.小説「風の又三郎」について


風の又三郎は1931年に発表された短編小説です。作者はみなさんご存知

宮沢賢治。国語の教科書にも登場する詩人・童話作家。

本作は宮沢賢治の晩年の作品です。




2.あらすじ


作品の舞台は田舎の小学校。1年生〜6年生までが一つの教室で勉強するような山あいの小さな小学校です。


夏休みが終わり、2学期が始まる9月1日。1年生の二人が一番乗りに登校すると、教室には見慣れない赤髪の男の子が座っていました。


不思議な見た目をした見知らぬ少年の登場に他の生徒達もザワツキます。

その少年の正体は都会からやってきた転校生、
高田 三郎。


標準語を話し、朝出会うと「おはよう」と挨拶を交わす三郎に、子供達は興味を持ちながらも、不思議な違和感を覚えていました。

田舎の小学校の生徒には先生に挨拶をする習慣はあっても、子供同士で挨拶をする習慣はなかったからです。


他にも鉛筆を失くして困っている生徒に分け与えたり、三郎は他の子供達とは異質な、大人びた部分を持ち合わせており、それが田舎の小学生にはとても不思議な存在として写りました。


そこで子供達は、三郎のことを風の神様の子として言い伝えられる

「風の又三郎」だといいました。



作中には三郎のことを、風の精霊として神秘的に描写する場面がありますが、あくまでも設定は転校生であり、宮沢賢治は最後まで三郎の正体について言及していません。


田舎の子供達は、三郎とともに過ごし、不思議な存在だった三郎を受け入れていくことで成長していきます。

ある日放課後に三郎も含めたみんなで土手で遊んでいると、



馬が土手の外に逃げ出し、喜助と三郎がそれを追いかけます。

急に空が荒れ、霧に迷い込んだ喜助は疲労困憊の中気絶してしまいます。


そこで喜助は朦朧とした意識の中で、ガラスのマントと靴を身につけ、空を飛んでいく三郎の姿を見ます。


意識が戻ると、逃げ出した馬がそばにおり、みんなに見つけられてなんとか助かりました。


別の日には、みんなでブドウ狩りに出かけます。途中の道で三郎は、国の専売局が管理しているものとは知らず、たばこの葉っぱを一枚むしります。


他の子供達は、「うんと叱られるぞ、知らないぞ。」と茶化しました。

みんなに茶化され少し怒った三郎でしたが、葉っぱを置いて道を進みます。


しつこく最後まで三郎のことを茶化していた耕助は、三郎と口論になりました。

耕助がブドウを取っているヤブの上で、栗を取っていた三郎。

三郎が栗の木を揺すると、下のヤブにいる耕助に雫が落ちました。

怒る耕助に対し、三郎は「風が吹いたんだい」と笑ってごまかします。


それから耕助はおさまらず、しばらく喧嘩が続きますが、最後は三郎が耕助をなだめ、笑い話にして、自分から謝ることで場を収めました。


別の日に川に遊びに行った時には、発破という火薬を使った禁止漁法で魚を狙う子供達。


しかし魚はまったくとれませんでした。諦めて川で鬼ごっこをして遊んでいると、三郎が一人、鬼になりました。

逃げていた喜助にバカにされた三郎は必死で追いかけ、次々と水に落ちた他の子供達を捕まえ、最後には喜助を引っ張り回して捕まえます。

その瞬間に山の向こうから雷鳴が響き、夕立が降り、強い風まで吹き出しました。


子供達は我先にと、河原から逃げ出します。三郎も怖くなり急いで泳いで河原から逃げようとします。

すると子供達が声を揃えて

「雨はざっこざっこ又三郎。風もどっこどっこ又三郎」と叫びました。

三郎はものすごい勢いで迫り寄り、ガタガタ震えながら

「今叫んだのはお前たちか」と言います。


子供達は違う違うと逃げるように家路につきました。


三郎が転校してきて12日目の朝は、ひどい嵐の日でした。一郎は夢の中で、三郎に教えられた歌を聞き、飛び起きます。

そして何気なく、「又三郎が飛んでいってしまったかもしれない」

と言います。


そしていつもより早く登校すると、案の定三郎は、日曜の間に引っ越しを済ませ、みんなの前からいなくなってしまいました。




3.風の又三郎が吹き飛ばしたもの




作中に登場する

という一郎が三郎から聞いた歌があります。

ヨルシカの又三郎の歌詞にも登場するこのフレーズに、物語に宮沢賢治が込めたメッセージが詰まっています。


三郎と出会い、共に過ごした子供達は、少しづつ大人に近づくように成長していきます。



挨拶をする習慣、他人のために自分を犠牲にする配慮、喧嘩をしても自ら謝罪し仲直りできるスマートさ。


見た目や言葉遣いという表面上のギャップ以上に、精神的に成熟している三郎に影響されました。

実際に三郎と喧嘩をした耕助は自分でとったブドウを三郎に分け与える場面があります。当初は、自分が見つけたものだからあんまりとってくれるなよ。と意地を張っていました。

たばこの葉っぱをちぎった三郎を専売局員からみんなで守ろうとする場面もあります。

明らかに、三郎と過ごす中で幼稚な部分を成長させていっているのです。


また、三郎が示した強烈なメッセージとして心に残ったのが

自然の怖さです。


喜助が土手の外で霧に迷い、意識を失った場面で突如、

三郎は、ガラスのマントと靴を身にまとって空を舞い、転校生の三郎ではなく、「風の精霊 又三郎」として描かれました。

川で遊ぶシーンでは、夕立にあい、ガタガタ震えながら恐怖する三郎と、

ふざけて歌を歌っている子供達が対照的に描かれています。


はしゃぐ幼稚な子供達と自然の怖さを肌身で感じる大人の三郎。


「今叫んだのはお前たちか」

と詰め寄った三郎は、自然をなめるな。

と伝えたかったんではないでしょうか。

川の増水は簡単に人の命を奪います。今夏は記録的な豪雨で全国に被害が出たばかりでしたし、


そういう自然の恐怖を子供達に経験させ、学ばせようとしているんではないかと読んでいて思いました。



ー青いくるみを吹き飛ばせー

胡桃の花言葉は「知性」です。青いということは実が熟していないということ。

未熟な知性=幼い、子供 

そんな意味が込められている表現ではないでしょうか。

ーすっぱいかりんも吹き飛ばせー

花言葉はこの物語と結びつくようなものとは感じませんでしたが、

すっぱいとあるように、やはりこちらもまだ熟していない、未熟な果実であることが分かります。


風の又三郎は田舎の子供達の未熟で幼い部分を吹き飛ばし、

また風となって去っていった。そんな物語ではないでしょうか。





4.ヨルシカの「又三郎」に吹き飛ばしてほしいもの

「又三郎」の特設サイトには次のようなコメントがあります。


現代社会の閉塞感、不安、憂鬱さなどを打ち壊して欲しいという想いを風の子に託した疾走感溢れるナンバー。


宮沢賢治の風の又三郎とは異なるメッセージを風の子に託しています。



水溜りに足を突っ込んであくびをしている生活。

社会に縛られ、繰り返しの毎日を過ごす大人のことや、

コロナ渦でどこにも行けず、閉塞感に満ちた今の生活を表現しているのか。

そしてそんな社会や生活にも抗えない大人の願いこそ、

又三郎に全部吹き飛ばしてほしい。



「青嵐」の意味を調べると、青葉の頃に吹く、強い風。

嵐ではなく、青嵐を使ったのは若く自由だった青い季節=青春時代

を強調したかったからではないでしょうか。

現状を打ち壊し、青春時代に戻りたい。大人から子供に戻りたいという衝動から、幼稚で未熟な部分を吹き飛ばした宮沢賢治の風の又三郎とは真逆のメッセージを感じます。



この部分の歌詞では、

現在の自分と又三郎の対話のような表現になっています。

青春時代の自由な自分を又三郎に置き換え、対話しているということでしょうか。

「何もかも思いのまま」だったあの頃を思い出し、

風を待つだけでなく、

もっとひどい雨まで振らせて、そしてこの憂鬱な気分をぶっ飛ばす風を吹かせてやろう。

という自分から変わるという強い意志のようなものを感じます。





1番のサビと異なるのは

今に僕らこのままじゃ
誰かも忘れてしまう。

の部分。こんな窮屈な生活を続けていたら、自分の個性を見失い、最後には自分が何者なのか分からなくなってしまう。

そしてそんな現状を打破するには、

何もかも捨ててしまうような覚悟が必要だと強く訴えられています。

現状の最善に留まっているようでは何も変わらない。捨てる勇気を持てと、心に刺さるメッセージです。



じゃあ、現状を打破する風とはなにか。

それを歌っているのがこのラストサビ。言葉が貴方の風だ。

自分の言葉こそ今を変えるもの。風を吹かすもの。

自分の行動や思考を変えるものが言葉で、それこそを変える自分の武器であると。


結局変わらないといけないのは自分自身。


直後の歌詞では僕らを飲み込んでゆけとあるように、

今の自分と自由だった頃の自分は常に共にあり、いつだって変わるきっかけは自分の中にあると強調しています。だからこそ、僕ではなく、僕ら。


青嵐を吹く又三郎は待っていてもやってこないし、

どこかに消え去っても行かない。常に自分の中にいるから。

曲の後半では風を待つという言葉は使われなくなっていますし、

吹けば青嵐 から 吹けよ青嵐と変化しているところも

吹いてほしい から 吹かせてやる という意志の変化なのかもしれません。



原作のメッセージを的確に汲み取りながら、それを現代社会に刺さるよう昇華させた見事な神曲。

どっどど どうどをコーラスに使うセンスも。やっぱりヨルシカは神です。

n-bunaさん、あなたの指先にはたぶん神様が住んでいます。


あくまでも個人の意見です!では!

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