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スポーツメディアの役割への疑問 #さかろぐ #2020apr02

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本配信の内容と進め方

:今日の配信は先月の25日頃に発売された『サッカー13の視点 13人の研究者によるアカデミックサッカー講義』という本を使います。この本は13人の方がそれぞれの視点からサッカーを語るという体裁をとってる本です。上智大学の講義を書籍化したものらしいです。
 それぞれ論点は重なってる部分もあれば、異なる話も載ってるんですが、今回全部を2時間の配信で喋るのは難しいので、1~13のうち4、5、7章を扱います。自分たち二人は買って一通り目を通して、どのテーマで行こうかっていう話をして、これらのテーマにしました。
 持ってない人に説明するのが少し難しいんですけど、僕はサッカーを通した集合的アイデンティティの構築の話(4、5章)をします。
(下図は本の目次。)

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:僕はメディア論の話ですね。落合博さんが書かれた「『熱狂』と『感動』から離れて」(7章、pp.92~104)という章について話したいと思います。

:展開としては、それぞれ担当している章の簡単なまとめ、僕は小学生みたいな何にも考えてないまとめをトークで補いつつ、どういう話をしようかって感じで、論点を提示して二人で話しながら、コメントも見ながら進めていきたいと思います。

要約パート:スポーツメディアは盛り上げ役ですか?

:本を持ってない人は画面を見てお願いします。

:落合博さんは元毎日新聞の論説委員の方、社説を書いてた人で今は本屋さんを営んでいるそうです。全体の本の位置づけとしては、サッカー社会学で一つの定番研究領域であるメディア論だと思うんですけど、ちょっとだけ気になったのは、どうしてメディア論だけ本職の教授じゃないんだろうとは思いました。
 この本は「13の視点」と言っている通り13人の方が書かれていて、他の方は大学に所属している方が書かれているんですが、その中で一人だけ在野と言うかアカデミックではない方が書かれてます。なので他のと比べると、若干経験に基づいた話の進め方になっています。
 まず最初にこの章を要約したいんですが、この章で言っているのが基本的には「スポーツメディアの役割ってなんですか?」を二つの切り口から言ってます。その二つが「盛り上げ役」と「感動伝達装置」、この二つの新聞の役割に疑問を持っていて、そこに対して問題提起をしています。

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 一つ目は「スポーツを盛り上げる役としてのメディアってどうなの?」っていう話をしています。そこで上げている事例の一つが東京オリンピックのスポンサーに新聞4社が入っていること。公正な報道をするはずの新聞社がスポンサーをやるなんて、しかも4社もあるなんて、と言うところにこの方は疑問を持ってます。新聞社で働く邨田くんも何かしら思ってるかもしれないんですけれど。

:それはまあ後で笑

:朝日、読売、日経、毎日この4社が東京オリンピックのスポンサーになってます。落合さんの個人的な調査によれば、元内部にいたから分かるのかもしれないんですけど、一年で3億円、それを五年間で15億円払うスポンサーが4社ある。

:大金や。

:そう大金を払ってる。完全にビジネスパートナーになっちゃてる。その中で公正な報道ができるのか、ってところに落合さんは疑問を持っている。朝日新聞の社告で、オリンピックのオフィシャルパートナーになりましたっていう記事の中で、一つ気になる表現があると落合さんは言ってます。

 新聞社として、報道の面では公正な視点を貫きます。同時に、これまで携わった催事から得た知見を生かし、より健康で文化的な暮らしができる社会の実現につながる活動を展開し、東京2020の成功、未来に向けたレガシー(遺産)創造への貢献をめざします。
(引用元:朝日新聞社HP「「東京2020オフィシャルパートナー」に朝日新聞社 多面的に大会支援」2016.1.22,<http://www.asahi.com/shimbun/release/2016/201601222.html>)

 何が気になるかっていうと、「報道の面では」のところですね。つまり本業である「報道の面では」公正な姿勢は貫きますが、それ以外のところではスポンサーとしてあるべき姿を目指しますよ、って言ってるのではないかって落合さんは言っていて、あえて公正な報道という言葉をわざわざ引っ張り出してくるのは、逆にやましいことがあるんじゃないの?って思っているそうです。
 ちなみに日韓W杯の時から大規模イベントに新聞社がスポンサーするっていう流れができたみたいなんですけど、最初が朝日新聞1社でスポンサーしてるんですが、その時も社告でスポンサーになることを伝えていて、その中で断り書きとして朝日新聞の記事はFIFAと関係なく独自の取材に基づいてますと書いて、スポンサーでありつつ、でも報道の距離をとっていることをアピールしている。こうしたスポンサーへの配慮から来る公正な報道のアピールは、初期のW杯の時からあって、同様に今回のオリンピックでも書かれてます。
 朝日新聞に限らず、読売新聞もわざわざ「契約後も、報道機関として読者や社会の信頼に応える公正な報道を続ける姿勢は堅持します」と書いていて、こちらでもスポンサーへの配慮を出してるというのを事例の一つに挙げていました。
 また本山彦一さん(毎日新聞社元社長)という方が「新聞商品主義」というのを言っていて、新聞といえども売れて独立経営しないと報道の自由を守れないと言っていて、今の新聞界もそう言った風潮が強い。そのため会社の戦略の一つとしてニュースの創出があって、さらにその手段の一つとして自らスポーツイベントを作ったり、もしくは支援して注目を集めるニュースを作り出す、っていうのが今の新聞社の活動の一つになっている。
 こうした事例から、新聞社というのはイベントを報道する立場でありながらも、イベントそのものを盛り上げる役に徹しているのではないか?、っていうところに疑問を持っていて、それは本来のあるべき姿から離れてるんじゃないの?という問題提起を落合さんはしています。これが一つ目です。

要約パート:スポーツメディアは感動伝達装置ですか?

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:続いて二つ目、一つ目に近いんですが、メディアは感動伝達装置なのか?という話。これも単純な疑問ではなく、反語的な意味が込められてると思うでんすけど。そこで挙げられている例が、日韓W杯で日本が決勝トーナメントに進出した時の社説の見出しが「よくやった、みんなで拍手を」だったことを挙げて、応援する姿勢を社説で示すことに疑問を持っています。
 落合さんが言うには、社説は会社の意見として出すものであって、基本的には抑えた表現を使うのが原則らしく、浮かれた表現は使わないはずなのに手放しで喜ぶ姿勢を社説で示すのはどうなんだ、というのが落合さんの疑問です。
 そもそも感動をメディアが伝えるきっかけはどこだったのか。落合さんの経験によれば、ドーハの悲劇のときに帰国を出迎えたファンの横断幕が「感動をありがとう」で、それを報道したタイミングがスポーツで感動をありがとうと大々的に言った始まりなんじゃないかというのが落合さんの話。
 データベースで調べると、新聞の記事タイトルで「感動」が使われたのは、例えば1996年野茂英雄のノーヒットノーランだったり、最近で言うと東日本大震災のとき、「感動をありがとう」「夢と感動を与えたい」というワードが出るようになっているそうです。

要約パート:落合氏の描く新聞像

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 ちょっとずるいなと思うのが、落合さんはあんまりはっきり主張は言わずに問題提起で留めてます。なので真意は読み取りにくいんですが、章の最後の部分で書いてあることから読み取る限り、メディアの役割という項で星野智幸さんという産経新聞の元記者の方のブログでの言葉を引用しています。

星野智幸「私の求める今後の新聞像とは、世の中に冷や水を浴びせる役割だ。インターネット時代、メディアは世の欲望や熱狂を加速させる機能へと特化していくばかりである。今やどうしても遅 るメディアである新聞には、むしろ『スローメディア』として世の欲望や熱狂 に疑義を挟む役割がふさわしいと思うのだ。」
(引用元:「星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記」2009年6月9日の投稿<https://hoshinot.exblog.jp/11719632/>)

 また1番最後の節「新聞は何を伝えるのか」の中では、トップアスリートに莫大な税金が注ぎ込まれていることを引き合いに出して、そうした報道を目にすることがないですよね?とこちらに問いかけています。
 こう言ったことから見るに落合さんは新聞の本来の役割は、イベントを盛り上げるや感動を伝えるではなく、こうした影の部分、普段スポットライトを浴びない部分も照らして世の中に伝えて行かなきゃいけないんじゃないの?と言いたいんだろうなと。その意味で、章を全部読むと章のタイトルは落合さんの主張を表現しているなと思いました。つまり新聞というメディアはもっと「熱狂」と「感動」から離れて報道すべきなんじゃないか?っていうことをタイトルに込めたんだと思います。
 長くなりましたが以上が章の要約ですね。気になった方は読んでいただければ。

-対談パート「スポーツメディアが盛り上げ役になる理由」に続きます-

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