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贈った手紙の行く方は?

 この数年で200通近くの手紙を子どもたちに書いてきた。「先生、意外だね。」と言われるようなめんどくさがり屋の僕が、なぜ手紙を書いているのか。

 それは、今までいろんな人から手紙をもらってきて、毎回シンプルに嬉しかったから。LINEでもらったメッセージの中にも印象に残っているものはたしかにある。でも、なぜか手紙には敵わない。便箋を選び、ペンを走らせ、封筒に包み、渡す(送る)。このちょっとした手間が僕の心を動かす。もちろん手間さえかければ喜ばれるということでもない。ただ少なからず僕は、人が僕のためにしてくれたこの手間に心を打たれることが多い。今日も久しぶりにもらった手紙を読み返していて、元気をもらったり、頑張らないとなと身が引き締まる思いになったりしていた。

 でも他にも理由はある。例えば話をするときいつも伝えたいことを伝えきれないもどかしさがある。そうじゃないんだ、それだけじゃないんだって。いつも頭の中がごちゃごちゃしていて、うまく話せない。だから時間をかけて、言葉と構成を決めないと伝わらないんじゃないかっていう怖さとか逃げの気持ちがあるから手紙を書いているのかもしれない。
 
 あとは普段言えないような本音も恥ずかしさひっくるめて受け取ってもらえそうだからかもしれない。

 単純に子どもたちが好きだからというのはもちろんある。

 でもそんないい理由ばかりではない。やっぱり好かれたいとか、いい先生・コーチだったなと思われたい。そんな気持ちはないことはない。うん、隠しても隠しても出てきてしまう。困ったことに。



 僕は9月から海外に行く。そんなことを言えば、次に返ってくる言葉は「え?どうして?」。もう何十回と聞かれた質問なのに、どうしてもうまく答えられない。いや、うまく答えられるようにはなったんだけど、いつも分かりやすくするために省略して答えてしまう。だから心の中で一人、「それだけじゃないんだよな…。」とつぶやいて、モヤモヤしている。

 行動の裏にある理由は、唯一のものでなくたいていは複数あって、しかも意識できていない、まだ言葉にもできていないものもあるんじゃないかなと思っている。子どもたちに手紙を書く理由も、その子に選んだ言葉も、海外に行く理由も、ほんと複雑で、自分でもよくわかっていないんじゃないかと。「理由は3つです。」みたくはっきりさせてしまうことは、なにかを失っているような気がしてならない。そう感じているのは僕だけだろうか。それともまだ考えが浅いだけなのだろうか。


 僕の書いた200通の手紙の中で、心に残るような手紙は何通あったのだろう。またいつの日にか読み返したいと思える手紙な何通あったのだろう。その子を励まし勇気を与えられるような手紙は何通あったのだろう。そしてまだ捨てられずに生き残っているのは何通だろうか。

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