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自動運転が楽しみな人と楽しみじゃない人

 僕はこの4ヶ月間でかなりの距離を車で旅してきた。大分→静岡、静岡→北海道→静岡。それ以外にも関東方面や近畿方面にも車を走らせた。

 ただ僕は車の運転自体あまり好きじゃない。できたら誰かに運転してもらいたいし、自動運転になったら、どれだけいいかと思う。事故を自分の不注意で犯してしまうリスクもほとんどなくなり、道中は景色を眺めたり、本を読んだりして過ごせる。今回の旅が自動運転車だったら、違ったものになっていただろう。実際北海道は電車旅にしようと考えていたが、行きたいところに線路が通ってなかったり、本数が少なすぎたりして断念した。

 ただここで考えたいのは、僕のような人ばかりではないということ。運転それ自体が目的になる人たちがいるということである。そしてある意味自動運転は悪になりうるということである。

 近い将来、人が手動で運転してたことがなんて恐ろしいことをしていたんだと感じるような社会が到来するかもしれない。自動運転が普通になれば、手動運転はリスクでしかないし、効率の面でも全部自動運転にするより、非効率になる。そうなると手動か自動かという選択の自由がそもそもなくなるかもしれない。しかしそれは本当にいいことなのだろうか。



 僕たち人間は多様だ。僕のように自動運転を好む人もいるば、拒む人もいる。そして好む人の中にも例えば可能な限り早く目的地に着くことが大切な人もいれば、早くなくていいから道中の景色を楽しみたい人もいる。そしてそういう傾向がありながらも、景色を楽しみたい人もある状況下では、可能な限り早く目的地に到着することを望む場合もあり、その程度はほんとうに人それぞれなんだと思う。確認だけど、これは自動運転を拒む人も似たようなことがあると思う。



 もう一度言う。僕たち人間は多様だ。だからこそ、合理化や効率化を求めることは大切だが、それが社会全域を覆ってしまわないようにしないいけないのではないか。なぜなら人間は多様だから。もっといえば生態系が多様だから。そして合理化や効率化を求める目的は結局、なるべく多くのことをできるようにするためではないか。それは言葉を変えたら多様さを求めているのではないか。1つのシステムで完璧に全域を覆ってしまうことは一見いちばん効率的に思われるかもしれないが、それは違って、無駄というか、前のものを残しておくことの方が逆に効率的なのかもしれない。 

 今回は自動運転をテーマに考えたが、本と電子書籍のことも同じだと思うし、農業の自動化・工場化のところもそうだし、勉強もそうだと思う。勉強に関してはchatGPTのようなAIに提供してもらったカリキュラムが1番効率的かもしれない。もっと言えば将来脳をインターネットに繋いで一瞬で知識をインプットできるかもしれない。それでも本当に学びたいことは、自分で調べたり考えたり体験したりして、発見したいし、分かりたい。それが以下に非効率で無駄だとしても。そういうことって程度の差こそあれ、みんなもってるはず。それをお互いが認め合える社会になって欲しいし、それこそみんなが求めていることなんじゃないかな。


 いつかそんなことを学べる学校をつくりたい。

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