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大人もごっこ遊びをしよう


子供の頃ってよく『ごっこ遊び』してましたよね。〇〇レンジャーの真似、とか、女の子だったら人形を使ってお母さんの真似ごとをしてみたり。僕もよくゲームのキャラクターに扮して遊んだり、木刀で葉っぱと戦ったりしてました。

でも大人になったらそういう遊びしないでしょう?いきなり「とりゃあ」とか言って、空にキックを放ったりしないじゃないですか。まあ大人でもコスプレとかでキャラクターになりきることを楽しむは一定数いて、良いな~と思いますけど、そういう人達は世間と比べると少数派なわけです。

だけど、少数派といいつつ、実は『ごっこ遊び』をみんなしているというか、心の奥底ではしたいんじゃないかなって思うんです。それはキャラクターや戦隊物、おままごとをしたいっていうわけじゃなくて。興味関心の対象が子供時代から変わっていって、そして、成熟していくなかで表だって子供のように表現しなくなっただけなんじゃないかと思います。僕の中で、ごっこ遊びって、憧れに近づく行為、あるいは憧れている理想像になり切る行為なんでね。こうやって抽象化していくと、大人であってもそういう憧れに近づこうとする行為はごまんとあるわけです。憧れている理想像に属したいっていう欲です。

例えば、僕の場合は音楽をやるのは音楽が単に好きっていうのもあるけど、アーティスト、表現者っていう理想像に創作している間なりきれるからっていうのもあります。つまり、カッコいいからやっている。それは、本質的にはごっこ遊びをしているときの感覚と同じなんですよね。文章もそうで、文章をこうやってカタカタやっている間はまるで文筆家になったかのよう。それがうれしいんでやっている部分もあるんですよね。

あとは、そうだな。『丁寧なくらし』とかもそうなんじゃないですかね。あれも憧れに近づく行為で。もちろん、色んな気持ちでそういう暮らし方をしていると思うんですけど、単に楽しいから、それがうれしいからっていう部分で実践している人も多いと思うんです。そしてその楽しいうれしいという気持ちの中には、あこがれている属性に属している感覚っていうのもあるんじゃないかな。

だからなんだろう。みんな本当はごっこ遊びとかをやらなくなっただけで、いつまでも憧れに近づきたいという気持ちはずっと抱えているんじゃないですかね。で、憧れに近づけた時はうれしい気持ちになるはずです。それは一見浅はかな行動に思えても、でも子供の頃ってそんな感じでしょ。別に本気で世界を救ってやるんだって思って、架空の敵と戦ってたわけじゃないでしょ。敵と戦うためじゃなくて、ただそのカッコイイ存在になりたいから真似っこをしていたんだと思うんですよね。でも大人になったら、高尚な理由や動機をかんがえがち。それがないとやっちゃだめって思ってる。だけど全然そんなことなくて、憧れに近づきたいっていうのも純粋な一つの欲求なのでね。浅いとか深いとか関係ないと思います。

憧れに近づくってうれしいし、それを体験することはいますぐにできるんですよ。動きはじめた段階からすぐに味わえる。それをしつづけたらずっとうれしいまんま生きていけるわけです。そしてこれは感覚のお話なので、やってみないと分からないんですよね。車の免許を取ってはじめて、見えてくる選択肢があるような感じ。体験しないと分からないんです。だから、もし憧れているものがあるのなら、さくっとやっちゃったほうがいいなって思うし、それを大人っぽい理屈で抑える必要もないと思います。ごっこ遊びでいきましょう。


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