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ちゃんと口で伝えればいいのに

暗黙の了解に頼っている人間って結局ラクをしてるんだろうなって思うことがあった。

通勤時間の電車の中のあるシーンでそう思った。

人が多くなってくると電車の中にいる人たちは少しずつ詰めて、乗れる人のスペースをつくるように動く。

これは誰から教えてもらったわけでもなく、そういったルールっぽいものになっている。

いわゆる暗黙の了解。

ただ、みんながみんな、それを知っているわけではない。

それを知らない人からすれば勝手に人が近づいてきてぎゅうぎゅう詰めにされていくわけだ。この人たちは正気か?と思ってもおかしくないと思う。

ただ、そこでよくないなと思うのは暗黙の了解だからといってそれを当たり前に動くことだ。
なかなかそういった状況を察して動かない人がいる場合は暗黙の了解を知らない可能性とか何か理由があって動いてないと考える。
だから、「すみません」とか「少し移動してもらえますか?」とか一言あるだけでも全然違うんじゃないかと思う。

現状、暗黙の了解に従って動く人たちは、ひどい
ときは言葉を交わさず、身体で隣の人を強引に押しのけたりする。
ただひとこと、「すみません」とかクッション言葉を伝えるだけで、目に映る光景は全然違うものになる。

暗黙の了解に従うゆえに、自分の異常性を普通と思う人たちはいったい何なのだろうか。

暗黙の了解とは気遣いから生まれたものなんだろうとか、そもそも興味がないのでそんなふうに勝手に思っていた。しかし、実情は異常性を生んでいたり、気遣いのひとことすら無くしてしまうようなものだった。

つまり、暗黙の了解が生んでいるものは「思考停止」だと思った。

満員電車に親子が乗っていて、目の前で子どもが座っていて母親は仕方なく立っているとする。

そんなときに、母親を押しのけてでも人のスペースをつくることが正なのか。

自分が母親の後ろのスペースにズレてスペースをつくるとか、ひとこと何か伝えて少しの間協力してもらう方がまだマシなんじゃないか。

そういったことすら考えられない人間が量産されているのかもしれないと思うと、非常に残念な気持ちになる。

暗黙の了解とはそもそも何なのだろうか。

見えないルールとはルールと呼んでいいのだろうか。

それで機能している部分はもちろんあると思うが、それによって考えて動くことをやめてしまうのはまた違う話なのではないだろうか。

僕は人間性を失ってまでそういったものを維持することは重要ではないと思う。

そもそもはお互いのための気遣いのようにも思えるくらいのものなのだから、改めて何のためにやるのかみたいなことを考えて動くことが大切なんだと思う。

きちんと考えろ、みたいな話はビジネスに限った話ではないことを改めて認識したのである。


今日も最高の1日にします。


2024/04/03

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