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競争の終焉〜パリオリンピックに思う

 旅するスーパースター?蕎麦宗です。

 暑い毎日の続く2024の夏。前回の東京オリンピックが延期した影響で、あっという間の3年間を経てフランスはパリでのオリンピック開催となった。
 我が家はスポーツ好き一家なので、両親がTVに齧り付いてオリンピックを見ている様子が日常だった。だから当然の如くにパリオリンピックがやっていることを承知していたのだが、いかんせん僕自身は興味を持てないでいる。だから例え日本選手が金メダルを取ったとて

『ふ〜ん』・『へー!』

という程度。しかしながら、蕎麦宗に来店するお客さんの反応は同様もしくはそれ以上で、

『えっ、オリンピックやってるんですか?』

という反応も少なくないのは、驚きでもあり納得でもある。

 要因はいくつか考えられる。無観客で終わった東京オリンピックの影響からのオリンピック離れ。ヨーロッパ時刻によるTV視聴者の減少。また、サッカーワールドカップやワールドベースボールのような、各競技毎の単体での大型世界大会の増加。それらが矢継ぎ早に開催されていることによるオリンピックの権威低下…などなど。
 そんなこんなを両親(団塊世代)と話したら、オリンピックとそのTV視聴は1964年の東京オリンピックから始まったという。ふむふむ、あれから60年。オリンピック&TVというコンテンツが、視聴者の高齢化と共にかげりを見せているようだ。

 競技内容も随分と様変わりし、ブレイキンやスケボー・スポーツクライミングといったカルチャーとしての《遊び》だったものが種目になっている。あれらを無理に順位付けする必要があるのだろうか?という疑問が、そのままこの《オリンピック離れ》を象徴している気がする。
 それは、僕自身思うに、何もスポーツに限らず順位付け=競争という価値観自体が終焉を迎えているのではないかということだ。

 科学技術の進展や産業の興隆は、他より優れているという《競争原理》によって作られてきたのが、ここ150年ほどの人類の歴史であることは疑いない。スポーツによる代理戦争もふくめ、国威発揚がオリンピックと同義であったことも否定できないし、商業主義と政治利用は、常にオリンピックの陰に見え隠れしてきた闇でもある。が、その推進力こそが競争原理の源泉。
 しかしながら、産業と近代化は世界中に行き渡り、いまさら他者との競争によってモチベーションは上がらない程に進展した。しかも、そうしてきたことが、オリンピック開催を可能か不可能かという貧富を、世界中の都市に生み出したこともまた事実。
 だとすれば、何のための競争か?今となっては疑問しか残らない。

 つまりは、人類の更なる進化発展のためには、もう競争は不要だということだ。それゆえに科学的な知見・医学による人体・パフォーマンスへの実験台としてのスポーツも、その象徴であるオリンピックも、意味と異議を失ったのだと思う。

 スピリチュアル(精神性や魂)視点からの人類の進化を想うならば、

《人それぞれ》

という個性化・個別化と、その多様性を認める社会作りには競争原理は第一線を退く方が望ましい。
 むしろ、自由でかつ他者と比べない生き方は

《美》

にこそ象徴されてゆくだろう。

 …と、小難しい理屈を並べてきたが、選手たちのたゆまぬ努力に口を挟むつもりはない。懸命な姿が人の心を打つことに変わりないし、感動そのものには《金・銀・銅・その他》の区別がない、つまり勝ったか負けたかではないことを、何より伝えたい、と思う。

 さて、ガンバラナシませう。

新競技・ブレイキン

#パリオリンピック #競争 #スピリチュアル #メダルの色 #ブレイキン #スポーツクライミング

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