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批評と馬糞


あれはもう四半世紀も前のこと、当時中学生だった私が通っていた学習塾で、国語担当の先生のした話が妙に印象に残り、今に至るまで、ひとつの行動の規範ともなっているものがあります。

その話自体、または、板書をしながらその話をする先生の身振り手振りの様子が興味深かったために、深く胸に(かつ、脳裏)に刻まれたわけですが、その出典・元ネタをめぐって、思わぬところで出くわすことになり、判明とあいなりました。

最初からそれを探し当てようとしていたわけではないけれど、長年にわたる旅路の果てに出会ったようなものなので、タイトルがいささか尾籠ではありますが、その判明したことをひとつの奇貨として、今日はここに紹介していきます。

まずは、出典・元ネタから。

村上春樹さんが、文章を書くにあたってはいくつかの個人的信条を持っていて、ひとつだけ例をあげると、それは「作家は批評を批評してはならない」ということがあります。

<以下引用>

でもそのようなあらゆる事情を考慮しても、作家が批評を批評したり、それに対して何らかのエクスキューズをしたりするのは筋違いだと僕は考えている。悪い批評というのは、馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋に似ている。もし我々が道をあるいているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。「どうしてこんなに臭いんだろう」といった疑問を抱いたりするべきではない。馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたらもっと臭くなることは目に見えているのだ。

<引用ここまで>

p.217、「批評の味わい方」より一部を抜粋:『村上朝日堂の逆襲』村上春樹/新潮社(新潮文庫)


『村上朝日堂の逆襲』村上春樹・安西水丸/新潮社(新潮文庫)


この内容は、冒頭に述べたような経緯で、"余計なものや面倒なこと(≒いわゆる馬糞的な物事、人も含むかもしれない)には、やたらと首を突っ込むことなく、あまり関わらない方が良いよ。そういうのは、近寄らず迂回するのが良いよ"という含意で教わったことで、まさか後々になって、村上春樹さんにつながるとは思ってもいませんでした。

確かに、この出典・元ネタの本は、1985年から1年くらい「週刊朝日」で連載したものがまとめられていて、翌1986年に単行本として朝日新聞者より刊行、1989年には文庫化されています。

私がこの話を聞いた時期が1995年のあたりですから、先生が熱心に読み込んで印象に残っていたものがこぼれ出たと考えると、なるほど平仄は合っているわけです。

この時に、村上春樹さんの名前を出したかもしれないけれど、それは私の記憶には残っておらず、それとは別の経緯で、自分自身で興味を持って、村上春樹さんの書いたものを読むようになっていくとは、「スタンド使いはスタンド使いと引かれ合う」(『ジョジョの奇妙な冒険』)ような出会いの引力を感じます。

今回の話にちなんで、同書にはこういう話もありました。

<以下引用>

僕は教訓のある話というのが比較的好きである。といっても、これはなにも僕が教訓的な性格の人間であることを意味するわけではない。教訓というものの成り立ち方がわりに好きだというだけの話である。

(中略)

教訓というものは一般に考えられているように決して硬直したものではない。どんなものにも必ず教訓はあるし、それは一律に同じ形をしたものではない。雨ふりにも教訓はあるし、隣の家の駐車場にとまっているカローラ・スプリンターにも教訓はある。べつにあえて探し求める必要もないけれど、あればあったでそれなりになかなか楽しいものである。

昔、学生時代に学校で『徒然草』を読まされたとき、先生は「現代の目から見れば作者の説教臭・教訓臭がいささか鼻につく」というようなことを言って、そのときは「なるほど、そういうものか」と思ったものだけれど、今になってみればその教訓的な部分だけがしっかりと頭に残っているから奇妙なものである。『徒然草』に限らず他の文学作品をとってみても、流麗な文章や緻密な心理描写というのはそのときは感心しても時が経てばっすっかり忘れてしまい、瑣末かもしれないがとにかく有効的という種類のことだけ部分的に覚えているということが多々ある。そういうのが良いことなのかどうかはわからないけれど、少なくとも何も覚えていないよりはましであろうと僕は思う。

<引用ここまで>

p.56−58、「教訓的な話」より一部を抜粋:同書。

この「馬糞」の話を聞いた場所が学習塾で、受けていた授業が国語だったので、もちろん国語にまつわる勉強やテスト対策のようなことがメインなわけですが、もう少し広範に考えれば、言葉を用いて思考していくということでは、こういう話もまったく的外れなものではありません。

むしろ、長い人生におよぶ教訓、あるいは教訓めいたものとして、個人に強く影響を与えているということでは、"ともに寄り道をしたがゆえに、ステキなものを手に入れた"ということでもあるかもしれません。

また、そうやって言葉を用いて思考することに少しずつ関心を持っていくにしたがって、私が村上春樹さんに行き着いているのだとするならば、この時すでに道筋が(ほのかに)示されていたということでもあるのでしょう。

先生、その節はクソお世話になりました(by サンジ『ONE PIECE』風)。

今も健在であれば嬉しい限りです。

この場を借りて、厚く御礼申し上げますm(_ _)m


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