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地域を「語る」ということ

たまに高野山を案内してと仕事やPVTで言われる。それ自体は大歓迎。

ただ、案内(guide)というのは簡単なものでもない。知識と同じように、如何にわかりやすく伝えるかということが大きな課題になってくるし、イメージと逆行する場合があるので真実だけを追求すれば尚更だ。しかも個人的には「こんなん当たり前」という自明の事実が、ゲストにとればそうではない(これは研究でも同じ)。人によれば「ここはお寺が多いねぇ、なんで?」「え?そこから?」と思うときもあります。

高野山は地理的にはコンパクトなので、いわゆる名所は、近代以降のインフラ整備と共に見出され、導線化されたともいえる。ある意味では多少の改変はあるが、1200年前の開創後に歴史を絞って順次説明するのはさほど場所性の選別としては難しくない。

しかし、近代以降の変化(社会的・文化的変容)を視野に入れたとき、その考えはとても困難なものとなる。何故なら、国家が定める文化財保護法などで指定されていない建造物や名勝などは、近代以降の開発によって取り壊されてきた事実があるからだ。この現実については、前に書いたアレックス・カー氏が抱く(観光経済的)景観論に対する批判と同様に、僕自身はそれがどーした程度にしか思っていない。文化が変容するものである以上、景観が変容するのは当然だし、その当時は誰も経済的恩恵を受ける(かもしれない)景観が日本的景観の「本質」などとは微塵も思っていなかった。その意味では曖昧な「和」イメージを求める人為的作業こそが歴史修正主義の一端でしかないとも言える。
確かに、カー氏を含む景観是正論者は、観光(toursim)というグローバル・フォース(ある意味で強制性を孕む)の一翼を視野に入れたうえで、ゲストにとって「モテる奴」の外見的服装を強調しているに過ぎない。

言ってみれば、文化や景観を拡大する世界の中間層による市場価値的イメージに合致するものとしてコントロールしている訳である。内実など知らないのに損得勘定に基づく歴史・文化を構築・・・違う、本質化しようと

アホである。

そのなかでも一番頭にくるのは、『経済活動である観光という現象を見据えた「景観」』という現実を語らないことである。「儲かる景観にしようよ!」が咽喉元まで出ている本音なのに「まぁ、地域住民のアイデンティティが育まれる景観」にしようと最後は社会的・文化的事象として地域に放り投げる。

で、僕が何を言いたかったのかというと、

結局のところ、いろいろな場所が開発によって失われていく(失うってのはなんかネガティヴなので「手放す」でもいい)。例えば、とある近代和風建築が、更地、しかも駐車場になる。文化財保護部局に所属する人間としては「ウワワワのワ」かもしれない。


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でもね、そんなん「ヤメテケロー」っていう姿勢も、法に支配された国家-都道府県-市町村が抱えるエゴなのかもしれないと思いながらこれまで仕事してきましたすいません。ちなみにその建造物を救う方法としては、

(1)所有者に価値を必死に説明したうえで思いとどまってもらい、駐車場の代わりに「カフェ」とかどうですか?と提案する。

(2)当該市町村がその土地と建物を取得(買う)して保護・活用する。

(3)上記(2)から移築先を考える。

ぐらいしかない・・・。当たり前の話として、所有者の方はそこを「駐車場」にすることによって経済的な恩恵を大きく受けることができるということを考えた結果である。だから正直な話として上記(1)~(3)は厳しい。

では最後の手段だ。

駐車場になった更地には文化遺産のカケラも見当たらない。それならばせめて、「この場所にはいずれ重要文化財になるような、歴史的にも価値のある建造物や名勝がありました」というひとつの「サイン」を残してもらえばいい」

・・・・・・・・。

ところで、大阪の難波パークスに行ったことはありますか?

あそこにの2階には、当時の南海(大阪)球場の「ピッチャープレート」「ホームベース」がさりげなーーーく再現されている。僕はコロナ禍以前に当地へ赴くときは常に、例えば嫁をバッターボックスに立たせ僕はピッチャーマウンドで投球動作をすることを心掛けている。「153km!!!」とか大声でフツーに言います。それを見た周囲の人は気づくんです。「あ!南海や!」ドカベンや!」「野村監督や!」「あ、そうか!!」と。

忘却される場所性の最後の砦が小さなサイン。

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この難波パークスの「サイン」。地域をガイドする皆さんには多くのことを教えてくれているように思います。おそらく、何のサインも残さなければ半世紀も経たないうちに忘れ去られてしまうでしょう、でも、何かしら、柱の1本、そこが商家であったなら看板の1枚、樽のひとつでも残しておいてくれれば、「語れる」「語るための材料」になる。モノが存在する限り語りは引き継がれます。遠野の創られた嘘くさい民話の伝承館以上に、語りが口頭伝承となって引き継がれる。

この先も、どこかで開発が起きる。その開発が無駄でなければそれは別に良い。ただ其処にひとつの歴史的事実・記憶として「語られる」ための「サイン」がないか、まず調べて欲しい。それは国が定める法とは無関係であることが多い。だからこそ庶民性や地域性という法令に変えられない価値があるわけです。まあ、みなさんがどーでもいいならぶっ潰してもいいんだけどね。更地になっちゃったら話のネタにもならないからね。

じゃ、明日の子どもの弁当つくってきます。


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