「何者」でも「あの子」にもならなくていい、「アタシ」になるために。

いつも心のどこかで何か特別な人にならないと価値がないような気持ちでいた。かと言って誰もが認めるようなテレビに出ている有名人には今更なれないし、世の中を変えるような技術者になれるわけでもない。

目に見えてより多くの人に称えられることを特別と思っていた。

果たして地味な繰り返しのアタシの毎日に価値はあるのだろうか。

近年SNSで人々の暮らしが垣間見れるようになった。画面上では皆キラキラしている。誰もが羨むような暮らしぶりが嫌でも見えてくる。

流行りをキャッチするにはSNSは欠かせない存在になった。

今やフォロワー数が名刺代わりのように使われる時代だ。

画面の中にうつる見ず知らずの人と自分を比較しては落ち込むこともあった。SNSはたくさんの情報をくれる。というか正確には自ら取りに行っている。情報に疲れる時もある。しかし離れると世の中に置いて行かれる気持ちになって寂しい。

わがままな気持ちが交差する日々だ。

いつしか表面上の写真1枚に、フォロワー数に、全て数字に振り回されるようになった。実際数字に安心する人がたくさんいるのも間違いない。それとは反対に数字に不安になる人もいる。ただ、数字を消すことは出来ない。その中でブレない自分が大事なのだ。

しかしアタシの場合は、本当に好きなこと、欲しいもの、やりたいことを見失う気がした。流行りを追っては全て必要なのではないかと勘違いする。手当たり次第何かしないといけない気持ちになる。羨ましいという気持ちはアタシには厄介だ。

しばらくSNSから離れてみた。

離れてみると何人かは「生きてる?」「なんかあった?」「元気?」と気にして連絡くれる人もいた。(繋がる安心感から割と更新率が高かった)

昔からの友人はSNSがなくても連絡を取り合う仲だし、会おうと思えば会えるし、お互い近況も知れる。

世の中に置いていかれる??

情報をとりにいく選択肢は1つではない。なにひとつ変化はなかった。

強いて言うならフォロワー数は少し減っていた。が、そもそも知らない人も沢山いた。誰が減ったかもわからない数字の集まりに興味はない。

そもそも誰に向かって何を発信したかったのだろうか。

遠くに居るなかなか会えない友人など自分の人生に関りを持つ人や同じように目標や好きなことがある人達にむけてであり、画面に映るあの子のようになるためではない事に気付いた。

自分ではない「あの子」になる必要は全くない。

結局アタシは「あの子」にはなれない。あの子が凄いということではない。

なぜなら、あの子も「アタシ」にはなれない。

自分を苦しめてまで偽ることは、自分を大事にしない罪だ。

はじめに戻るが、「果たして地味な繰り返しのアタシの毎日に価値はあるのだろうか。」

答えは、ある。

どんな日々も積み重ねた結果が今の自分だ。もし思っていた今でないなら価値がないではなく、学びだ。そこからまた試行錯誤しながら小さな選択を積み重なればいいのだ。そうやって皆、思っていた今に近づく努力をしているのだろう。それはやっぱり日割りにすると地味で地道な日々だ。

人の目に触れることが凄いのではない。

みんな同じだ。

さぁ自分らしさを見失わずに地道に歩いていこう。

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