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虚しさの支配

新しい朝とか、希望の朝だとか、いつになったら来るんだろう。

今年、私は二十歳になる。大学二年生。順風満帆、ようやく学ぶことを許された専攻の分野に身を置けると思っていた。思っていました。

けれど、直視した現実はこうだ。

コロナ、コロナ、コロナ。馬鹿の一つ覚えのように繰り返されるその言葉が、毎日ニュースのトップで踊っている。タチの悪い不安にまみれた言葉を素人頭が語って、闇雲に人の心を荒らしていく。外に出ざるを得ない人々は、見えない物に怯えながら顔の下半分を隠したり、手を消毒したり何ぞして、何とか生きている。毎日のように耳にする、医療従事者やライフワーカーといった職についた人の悲鳴。倒産、減収、失業、破綻。遠のく客足に苦しめられる職業の人。収入がなくなって、詐欺ビジネスに手を染める人。ステイホームを助けにつなげようと、娯楽を提供する職業の人。どの人もその人なりに、この現状を乗り切ろうとしている。

けれど、ある人は言う。

「安全な場所から歌歌ったり好きなことしてるだけで、気持ち良くなった気になって、ええご身分よな」

ある人は言う。

「あの人のお家は医療従事者だから、近づくとコロナになるかも」

ある人は言う。

「ライブハウスを閉めろ、コロナの温床だ」

ある人は言う、自分とは違う立場の人間に対する心ない言葉を。

医療従事者も、ライフワーカーも、文化人も、サービス業もアパレル業も飲食業も夜職も、みんなそれぞれの立場がある。命を救えるのは医療従事者で。ライフワーカーは、誰かの生活を支えていて。文化人は自分の中から人の心に対してアプローチして寄り添って。人に施すサービス業も、人を着飾るアパレル業も、人の胃袋と心を満たす飲食業も、人の欲望を発散させる夜職も全て、誰かにとっては必要な物だから、職業として成り立っている。

それらに対する意識の差が、このコロナ禍において浮き彫りになっているように思う。誰かにとって必要なものを、簡単に貶す言葉はあまりにも耳障りなものだ。身内もネットもテレビもこんなノリで、これらのせいで私の心は疲弊しきっている。

けれど、逃げ場がない。大人しくステイホームを強いられる立場の大学生には、どこにも逃げ場がない。責任の思いバイトは全く逃げにはならない。毎日毎日あらゆるところから放たれるヘイトを避けられない。コロナ前は、これらの逃げ場所は大学と、通学路の電車の中だった。

今は、どれも家の中だ。

家の中が世界の全てだなんて、まるでラプンツェルにでもなった気分だ。

いろいろな思いを噛み殺して家にいる。恩師が退職するコンサートも、初めて当たったライブも、先輩や友達との予定も、大学祭も中止になった。コロナさえなければ、なんて言っても仕方ないのは理解している。

寒気が去り、桜が芽吹き、吹雪いた花が新緑に変わり、新緑に蝉時雨が響くようになっても、

コロナがいない朝はこない。

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