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「できない」と「できるのに敢えてやってない」は区別できるのかな?

昨夜、ある人に言われた。
「お前はよく、あれができないこれができないと言うけれど、本当はできることすらもできないと決めつけているのではないか?」「お前は“やりたくない”と“できない”を混同しているのではないか?」
……ふうむ。確かにそうだ。
僕はおそらく、脳のドーパミンの分泌が正常ではない。ドーパミンはやる気と密接に繋がっており、したがって僕のやる気はいつもカスカスだ。
僕の「やりたくない」はすぐさま「できない」に直結する。“やりたくない”と“できない”を混同している。

しかし、この場合の「本当はできること」とは何なのだろう。僕自身はやる気がない、やりたくないと思っているところに、何らかの強制力をもって無理やりにやらせるとできるようになるということだろうか。なんだか幸せそうには思えない。まあ、ゼロ百で考えたら気が滅入るのも当たり前だ。多少の痛みや苦しみは人生のスパイスだと、自分の心に折り合いをつけて、ストレスと共に妥協の中で生きていくのが正解なんだろう。僕はそれができないんですけどね……

「できないと思いこんでいる」という話には僕もいくらか思うところがあって、いつか文章に起こすつもりだ。しかし、忠言をくれた件の人の世界観には僕が納得できない部分もあって、それが下記。

(a)能力的にできない
(b)能力的にはできるけど“あえて”、やらないことを意識的に選びとっている

「できないこと」を2つに分類している。
この分け方には問題があると思う。(a)と(b)は重なる部分があって、見方によっては両立可能だからだ。例えば人間の「意識」は仕組み上、ぜんぶ後付け話みたいなものだから、結局のところすべては(a)に回収される……とかね。でもこの話は今回わきに退けておく。

注意しないといけないのは、カテゴリーは粘土と同じで、分けようと思えば如何様にも分けられるし、くっつけようと思えばいくらでもくっつけられるということだ。だから、それがなんのために分けられたカテゴリーなのか、目的設定が大事なのだ。上の分類であれば、やる気や根性といったものを排除して自分の意思決定のみに着目する、といった感じの目的設定になるだろうか。その場合の問題点も考えてみよう。

さてさて

ケーキを食べるシーンで想像してほしい。人間がケーキを目の前にしたときの反応を5パターンに分けてみた。

【ケーキを食べるシーン】
(1)ケーキを食べたいという衝動が湧く→衝動を抑制しない(=食べる)
(2)ケーキを食べたいという衝動が湧く→衝動を抑制する(=食べるのを我慢)
(3)衝動がない
(4)ケーキを食べたくないという衝動が湧く→衝動を抑制しない(=食べない)
(5)ケーキを食べたくないという衝動が湧く→衝動を抑制する(=嫌々食べる)

ここで「ケーキを食べろと言われた場合」を考える。

(b)能力的にはできるけど“あえて”、やらないことを意識的に選びとっている のはどれか?

言い換えるなら、

ケーキを食べることが可能であるにもかかわらず、意識的に食べないことを選んだのはどの行動か?

当てはまるのは(2),(4)だ。

(2)ケーキを食べたいという衝動が湧く→衝動を抑制する(=食べるのを我慢)
(4)ケーキを食べたくないという衝動が湧く→衝動を抑制しない(=食べない)

次に「ケーキを我慢しろと言われた場合」も考えてみよう。(b)はどれだ?

言い換えるなら、

ケーキを我慢することが可能であるにもかかわらず、意識的にケーキを我慢しないことを選んだのはどの行動だ?

当てはまるのは(1),(5)だ。

(1)ケーキを食べたいという衝動が湧く→衝動を抑制しない(=食べる)
(5)ケーキを食べたくないという衝動が湧く→衝動を抑制する(=嫌々食べる)

さて、当然だが、衝動を抑制することは衝動を解放することより難しい。(4)に比べれば(2)のほうが難しいし、(1)と比べれば(5)のほうが難しい。

難易度の違う二つの事象を、ひとまとめに(b)と呼ぶ意味はあるのだろうか?

僕の言いたかったことをまとめる。
「(b)能力的にはできるけど“あえて”、やらないことを選びとっている」
という分類の仕方をすると、ポジティブな衝動に身を任せることと、ネガティブな衝動に抗うこと、難易度の異なる二つの事象を区別できず、混同してしまうのではないか?

ケーキが好きだから食べている人と、食べたくないのに我慢して食べている人とを、同列に褒め称えている人をよく見かける。ここで、僕はべつに後者だけを褒めろなどと言うつもりはない。そんなことをしたら我慢が美徳の世の中になって、世界中に苦痛が溢れてしまうだろう。

「ケーキを食べたいから食べてる人(1)」を褒めるなら、「ケーキを食べたくないから食べないでいる人(4)」も褒めろと言いたいのだ。両者は同じことをしているのだから。

いや、もう、ひねくれた言い方をやめよう。素直に表現したほうが伝わるかもしれない。つまりこうだ。

どうせなら、前者をもっともっと褒めろと提案したい。好きでやってる得意なことを、みんながそれぞれ天性の素質を伸ばしてこそ、効率よく社会が回せるというものだ。才能を認めて、才能を褒めるんだ!

ただ、僕はこの思想の問題点に気づいてもいる。「我慢が得意」な人々の不公平感が大きすぎる。才能を褒めたい。でも「我慢の才能」だけは褒められない。この矛盾。
そしてケーキを食べるのが得意な人間は、沢山のケーキを食べることを求められる一方、ケーキを我慢するのが得意な人間は、さらにケーキを我慢することを求められるだろう。後者の苦痛はどんどん大きくなる。我慢が得意な人だって、苦痛が好きなわけではない。耐える才能を持って生まれた人間は、下手すると何も才能を持たずに生まれた人間よりストレスフルな人生を送ることになるのかもしれない。
もちろん、僕のユートピアではみんなが我慢の才能を褒めてくれるわけだが、それだけで苦痛はチャラにならないだろうね。

(おわり)

※追記
「努力」という言葉や、自己責任論者の問題もここにあると思う。ポジティブな衝動に身を任せた人と、ネガティブな衝動に抗う人、両者が同じレスポンシビリティを持っているという考えは果たして合理的なのだろうか? 責任も人によって重みの違いがあるのではないか? いつか法哲学に詳しい人に会う機会があったら、聞いてみたい。

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