#41 荘子 -第二冊-(外篇)
“荘子 -第二冊-(外篇)”を読了。
今週は、前週の続きで荘子の第二冊(外編)を連続で読んでみた。
本書は前回の「内篇」と異なり、儒教やはじめ他教をDisりながら、とにかく「無為」の重要さを何度も説いている内容だったのが特徴的だった。
学びは多かった中で、特に印象に残った内容は下記の3点。
君子がやむをえずに世界の政治をとるということになった場合には、(万物をあるがままの自然に任せる)無為の政治が第一である。無意であったこそ、はじめて人々もその生まれつきの自然なあり方に落ち着くのだ。
無為(すなわち、ことさらな仕業をしない)でいて高くかまえているのが、天の道である。有為(すなわち、あれこれと仕業をする立場)でいて煩わしいのが、人の道である。君主は天の道であり、臣下は人の道である。天の道と人の道とは遠くかけ離れている。深く考えなければならない。
そもそも無心の静けさで落ち着いた安らかさを保ち、ひっそりとした深みにいて作為がないということこそ、万物のあり方の根本である。
無為について強く意識させられる内容だった。
次の外篇・雑篇についても楽しみ!
以下、学びメモ。
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・万物斉同の哲学とそこに基礎を置く因循主義とによって、精神の自由と平安を求めたのが、荘子の思想であった。そこには、独創的な思想が持つあの瑞々しさと、そして解脱の境地にも似た純粋な一種の宗教的態度があった。
→ところが、外・雑篇に入って後学の思想になると、全体として内篇のそうした色彩がかなり変わったものになっている。恐らくは、既成の思想を守って祖述し、それによって異派の思想と対抗していく必要から、そういうことになったのであろうと、因循主義に見られた一種の宗教的態度が薄れて、現実的で世俗的な関心が濃厚に見られる。
・仁や義を、漆や紐や縄のようにずらりと並べ立てて、作為のない本来の自然な道の世界でうろうろすることが、どうして必要であろう。世界中の人々を迷わせるだけだ。
・★大昔の各諸氏の時代には、民衆は平生の生活でもことさらな仕事をしようと思わず、外に出かけてもこれという先行きを持たず、食べ物をたらふく食べて楽しみ、腹づつみをうって遊んでいた。民衆のできることはこれぐらいのものであった。しかし、聖人が現れるようになると、儀礼や音楽に従って体を折り屈めて、それで世界の人々の姿かたちを無理に整えようとしたり、仁や義によって繋ぎ止めて、それで世界の人々の心を無理に和らげようとしたりすることになった。そこで、民衆ははじめてあくせくと努めて知識を求め、争って利益を追求して、とても引き留めようもないほどになったのである。これはやはり聖人の過ちである。★
・★君子がやむをえずに世界の政治をとるということになった場合には、(万物をあるがままの自然に任せる)無為の政治が第一である。無意であったこそ、はじめて人々もその生まれつきの自然なあり方に落ち着くのだ。★
・至道の精髄は窈窈冥冥(「ようようめいめい」、つまり、奥深くて極めがたく)、至道の極みは昏昏黙黙(「こんこんもくもく」、つまり、暗く静かで捉えがたい)。見ようともせず聞こうともしないで、精神を内に守って静かにしていると、肉体も自ずからに正常になるだろう。
・★何を未知というのか。天の道と人の道がある。無為(すなわち、ことさらな仕業をしない)でいて高くかまえているのが、天の道である。有為(すなわち、あれこれと仕業をする立場)でいて煩わしいのが、人の道である。君主は天の道であり、臣下は人の道である。天の道と人の道とは遠くかけ離れている。深く考えなければならない。★
・活動と休止、その死と生、その衰退と勃興、それらはまたその形のあるものの働きによるものではない。形もなく状もないものにとってそうなるのだ。それを治めようとするのは人のしわざである。物を忘れ天を忘れること、それを名付けて忘我というが、忘我の人であってこそ、天の境地に入ったものと言えるのだ。聖人とはこういう人物のことである。
・★そもそも無心の静けさで落ち着いた安らかさを保ち、ひっそりとした深みにいて作為がないということこそ、万物のあり方の根本である。★
・「悲しみや楽しみは自然の徳を妨げているものであり、喜びや怒りは真実の道からはズレた物であり、好みや憎しみは自然の徳を失わせるものだ」と言われている。心で、憂楽の感情を動かさないのは、徳の極致であり、道と一体となって変動しないのは、深い静けさの極致であり、何物に対しても抵抗のないのは心を空にした極致であり、外界の事物に働きかけないのは、落ち着いた安らかの極致であり、全てを包み込んで矛盾することがないのは純粋の極致である。
・★世俗の諺で「大衆は利益を重んじ、清廉の士は名誉を重んじ、賢人は志を貴び、聖人は精を貴ぶ」と言われる。そこで、素朴というのは、不純な混じり気が少しもないことを言い、純粋というのは、自分の心の霊妙な働きを少しも損なわないことを言うのであるが、そうした純粋素朴さをピッタリ身につけた人物こそ、真人と呼ばれるのである。★
・時の巡り合わせが良くなくて、世界中どこでも思い通りにならないということなら、自分で深く根を下ろして究極の立場に落ち着き、時世の転換を待つのである。これが身を安全に保つ方法である。
・外界の物に目が眩んで自己を見失い、世俗に振り回されて本性を喪失したもの、そうした人間を倒置の民とよぶ。
・道をわきまえたものは、必ず物事の道理に通ずる。物事の道理に通じたものは、必ず臨機応変の処置に明るくなる。そして、臨機応変の処置に明るいものは、外界の事物のために自分を害されることがない。
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