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#72 資治通鑑

"資治通鑑"を読了。
「後漢の党錮の禁(その後”黄巾の賊”に繋がる)」「南北朝時代の侯景の乱」「大唐帝国の安史の乱(楊貴妃はじめ楊一族や安禄山)」の3つの事例の詳細を解説している内容。

特に印象に残ったのは「智伯の破滅は、才すなわち才智ないし才能が、徳すなわち徳性ないし人格に優越したからである」というフレーズ。
リスキリングや人的資本経営というキーワードが賑わい、スキルや才能を優先した人材獲得・事業推進が更に加速しそうな現代に対する警鐘的メッセージだと感じた。

スキルや才能を優先させたところで結局は資本主義の中におけるラットレースを加速しているだけにすぎず、「人ととしてどう生きるのか?なぜ生きるのか?」という大事な部分を放置し続ける可能性が高いなーと。
商売人としての人生をこれから継続していく中で、個人的には「徳性ないし人格」を引き続き最優先にした意思決定を貫いていきたい。

超良書。
以下、学びメモ。

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・★(司馬光の批判)智伯の破滅は、才すなわち才智ないし才能が、徳すなわち徳性ないし人格に優越したからである。だいたい、才は徳と違ったものであるのに、世間一般は二つの区別がつけられず、おしなべて賢人すなわち立派な人物だという。これが、彼らの人を見損なう、いわば人物鑑識を誤る原因なのである。★
・才と徳ともに完全無欠なのが聖人、才と徳ともに欠くのが愚人であるし、徳が才に優越するのが君子、才が徳に優越するのが小人である。
→★一般的に言って、人物を採用する方法としては、もし聖人や君子を獲得して協力させることができぬ場合、小人をつかむよりは求人をつかむ方がマシである。小人はその才を悪き行為の遂行に活用してしまうため、被害が甚大になる。★
・(解説)中国の王朝政治とは常に宦官と外戚(皇后の実家一族)が国を私物化していくことで国家が危機に瀕していく流れがある。
・(党錮の禁に関する司馬光の批判)天下に真理が行われているときは、良識ある人は朝廷にあって道徳を宣揚し、かくてつまらぬ輩を糾弾する、しかも彼らは皆承服せぬわけに行かぬ。天下に真理が行われていない時は、良識ある人は袋の口を締めくくるように黙してもの言わず、かくてつまらぬ輩による災禍を避けるが、それでも免れぬことがある。
→党人たちは、混濁した世の中に生まれ、然るべき官位につかず、濁流渦巻く天下を口弁によって救済しようと思い、人物の是非を論じて、汚濁の輩を激発し、清潔の士を賞揚して、マムシや青大将のかま首をつついたり、虎や狼の尻尾を踏んづけたために、我が身は無法な刑罰にあうし、災禍は友人まで巻き込んで知識階層は全滅し、それに伴い国家も滅亡するに至った。誠に悲しいことである。
・(大唐帝国の安史の乱に関する司馬光の批判)聖人すなわち万人に範を垂れる最も完全な人格の持ち主たるべき天子は、道徳をこそ麗しいものと考え、その中心徳目たる仁義、すなわち人の人たるべき道の至るその実践をこそ享楽の対象とする。
→明皇すなわち玄宗は太平の世に寄りかかり、将来の危惧を思いやらず、耳目の楽しみに耽って、歌舞伎音曲の芸能に趣向を凝らした。いかなる帝王の富貴も自分を凌ぐ者はないと一人合点し、先人の追随も許さなければ、後人も優越するによしないものでありたいと願い、我が身を楽しませるだけでなく、他人にも誇示したのである。ところが、図らずも側にいた大泥棒(=安禄山)がすでに彼の富貴を狙う心を抱き、かくて亡命の旅にでて、人民は苦しみにあうという結果をもたらした。
→★今や明白である、君主が華美を尊んで他人に誇示したそのことが、大泥棒を招き寄せる原因となり得たことが。★

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