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#40 荘子 -第一冊-(内篇)

“荘子 -第一冊-(内篇)”を読了。
老荘思想を学びたく、先日は老子を読んだので次は荘子!
まずは内篇をじっくりと読んでみる。
今年はかなりお世話になっている金谷氏の訳書なので非常に読みやすく本書に関する理解が深まった。
”老子”にも記載してあったけど、確かに老子の方が現実世界を題材とする内容が多いが、荘子(内篇)の場合は抽象度をあげて世の理を解いている内容だった。
今回、特に印象に残った学びは下記の3点。

  • 荘子の人生哲学は因循主義で一貫している。そして、それを基礎付けるものが万物斉同の哲学であった。

  • ものごとの善し悪しの区別は相対的なものであるから、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明に委ねる。そしてひたすらそこに身を任せていく。此れも彼であり、彼も此れである。彼と此れとがその対立を無くしてしまった境地を道枢という。

  • そもそも自然は、われわれを大地の上に乗せるために肉体を与え、われわれを労働させるために生を与え、われわれを安楽にさせるために老年をもたらし、われわれを休息させるために死をもたらすのである。生と死とはこのように一続きのものだから、自分の生を善しと認めることは、つまりは自分の死をも善しとしたことになるのである。生と死との分別に囚われて死を厭うのは、正しくない。

昔読んだ禅の空や仏教の唯識思想の話と連動する内容が多く、それもまた思い起こしながら読み進めることができたので有意義だった。明らかに老荘思想の影響を禅や仏教は受けているはずなので、次の篇も楽しみ。
良書でした!

以下、学びメモ。

ーーーーー
・★荘子の人生哲学は因循主義で一貫している。そして、それを基礎付けるものが万物斉同の哲学であった。★
→万物斉同の哲学は、要するに、差別的な現象の奥にあってそれらを貫いている同一性としての絶対的な理法に注目するのである。その理法、すなわち、道の中心(道枢)に立つ時、初めて一切が無差別無対立だという真実の相が明らかになる。そして、それを悟ってそこに安住するものこそ、「真人」「至人」「聖人」と呼ばれる理想人であった。人としての生き方は、従って、現象に囚われて相対的な価値を追求することをやめて、絶対的な「自ら然る」道理に身を任せてゆくばかり、それこそが因循主義であった。
・音の出る原因を追求するのは世俗の立場である。そうした因果の世界を超え出て、音の出る当体それ自らで鳴ると悟るとき、そこに天の世界が開ける。
・★ものごとの善し悪しの区別は相対的なものであるから、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明に委ねる。そしてひたすらそこに身を任せていく。此れも彼であり、彼も此れである。彼と此れとがその対立を無くしてしまった境地を道枢という。★
・★すべての事物は、完成といわず破壊といわず、みな等しく一つのものである。ただ道に達したものだけが、みなひとしく一つであることをわきまえて、そのために自分の判断を働かせないで平常に任せていく。平常ということは働きのあることであり、働くということは広く行き渡ることであり、行き渡るということは自得である。ぴったりと自得したならば、究極の立場に行き着いたことになる。そこに身を任せてゆくばかり、任せてゆくばかりでそのことを意識しない。それを道の境地というのである。★
・★昔の人は、その英智に最高の行き着いた境地があった。その行き着いたところはとはどこか。もともと物などはないと考える無の立場である。至高であり完全であって、それ以上のことはない。その次の境地は、物があるとは考えるが、そこに境界を設けない物我一如の立場である。その次の境地は、境界があるとは考えるが、そこに善し悪しの判断を設けない等価値観の立場である。以上の三つの立場が、程度の差はありながら、万物斉同の真の道にかなったものである。★
・われわれの生命は有限であるが、心の働きは無限である。有限の身で無限のことを追い求めるのは危ういことだ。それでいてなおあくせくと心を働かせる者は、身の破滅があるばかりだ。善いことに努めれば名誉に近づくであろうし、悪いことに努めれば刑罰に近づくであろう。中の立場に従ってそれを一定の拠り所としていくなら、我が身を安全に守ることができ、我が生涯を無事に過ごすことができ、わが肉体を養うことができ、わが一生を十分長生きできるであろう。
・徳は名誉心のために流され、知識は競争心のために起こる。名誉というものは互いを傷つけあうものであるし、知識というものは争いのための道具である。名誉と知識との二つは人間を不幸に陥れる凶器であって、人の行為を完全にするためのものではない。
・「お前はお前の心の働きを統一するがよい。耳で聞かないで心によって聞くようにし、心で聞かないで気によって聞くようにせよ。耳は音を聞くだけであるし、心は外から来たものに合わせて認識するだけだが、気というものは空虚でいてどんなものでも受け入れるものだ。そして真実の道はただこの空虚の状態にだけ定着する。この空虚の状態になることこそ心斎(しんさい)なのだ。」
・むかしの真人は逆境のときでも無理に逆らわず、栄達のときでも格別勇み立たず、万事をあるがままに任せて思慮を巡らすことがなかった。こうした境地の人は、たとえ過失があってもくよくよと後悔せず、うまくいっても自分でうぬぼれることがない。これは、その認識が世俗を超えて自然の道理にまではるかに上り詰めることが出来たからこそである。
・★そもそも自然は、われわれを大地の上に乗せるために肉体を与え、われわれを労働させるために生を与え、われわれを安楽にさせるために老年をもたらし、われわれを休息させるために死をもたらすのである。生と死とはこのように一続きのものだから、自分の生を善しと認めることは、つまりは自分の死をも善しとしたことになるのである。生と死との分別に囚われて死を厭うのは、正しくない。★
・道のありかたは、すべてのものを送り出し、すべてのものを迎い入れ、すべてのものを滅ぼし、すべてのものを生成する。つまり、万物をあるがままにあらしめていくのだ。それを名付けて攖寧(えいねい)(=万物の変化とふれあいながら安静でいる立場)という。攖寧というものは、万物と接触して初めて出来上がるものである。
・★名誉をうける中心にはなるな。策謀を出すくちとはなるな。事業の責任者にはなるな。知恵の主人公になるな。窮極の立場と一つになって行き詰まることなく、形を超えた世界に遊び、自然から受けたままを十分に享受して、それ以上のものを得ようとするな。ひたすら虚心になるばかりだ。至人(最高の人)の心のはたらきは鏡のようである。去るものは去らせ来るものは来させ、相手次第に応待して心に留めることがない。だからこそ事物に対応して我が身を傷つけないでおれるのだ。★

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