半人前がいっちょまえに部屋のすみっコ見つめてかわいい

(2019年にすみっコぐらしに関して書いて下書きに放置していたものを改訂して放流します)

すみっコぐらしはお好きですか?
「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」は観ましたか?
そうですか。オーケー、じゃあ私とお話しましょう。いえ、いいんですよ。全然気にしませんから、そういうの。私、かわいいの大好きなんで。どうぞどうぞ、ここに座って。ええ、隣に。ふふ、あったかい。

観てからしばらく経ったので、そろそろネタバレしても大丈夫なんじゃないかと思いつつ。

元々、そんなに興味があったわけじゃなく、すみっコぐらしを好きな人が周りに何人かいたというのが運の付きでして、じわじわと2年ほどかけて洗脳され、今やただのファンでしかないという、なし崩し。前職が子どもと関わる仕事だったのもあり、空で描けます。

すみっコぐらしのキャラクターであるすみっコなかまたちが、規模の大きいんだか小さいんだか微妙なスペクタクル冒険譚に挑むという「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」。
ご存知すみっコぐらし好きなら文句なしに泣けて、知らない人だと何こいつ泣いてんのキモとなること請け合いの名作アニメ映画です。が、
そもそも、皆さんすみっコぐらし知ってます?
ていうか、皆さん部屋の隅好きですか?
メタフィクションってどう思います?

学校や職場、人間関係のあれこれにストレスを感じているのは大人も子どもも一緒です。社会は今や戦場。気を抜いた途端に背後から刺されかねない殺伐とした世の中を誰が想像したでしょうか。そうでなくても我が国の自殺率は、もうかなり長い間そのまま世情不安な最貧国における紛争による死者なんか目じゃない高さです。
私たちは、日々、軋轢の中で生きています。人と人が出会えば、そこには決してわかり合えない溝とか壁とかなんかそういう強固な隔絶が必ず生まれるものです。
それなのに、他人とはなんと残酷な存在なのでしょう。
わかり合えると思ってる他人の圧、わかっているとアピールしてくる他人の圧、そもそもデリカシーのない他人の圧、そういうA.T.フィールドをゴリゴリと削ってくるタイプのパターン青(a.k.a.他人)との戦いで穴の空いた心から漏れていく、ナイーブで貧弱な私たちの涙。漏れてるせいで目から流れないものだから、泣き顔も笑顔に見えて、こんなにつらいのになんでみんなわかってくれないのいっそこの塩味の海に溶けてしまいたい。なめくじみたいに……なめくじ?なめくじじゃないよ、にせつむりだよ。

すみっコたちも、それぞれ色んな悩みや秘密を抱えています。
しろくまはシロクマなのに寒いのが苦手で暖かいところに逃げてきた、ぺんぎん?はペンギンかどうかアイデンティティが怪しいしきゅうりが好き、ねこは恥ずかしがり屋で引っ込み思案すぎてすみっこを譲ってしまう、とんかつは肉のほとんどないトンカツのはしっこだから誰かに食べてもらうのが夢、とかげは本当は恐竜だから正体を隠して目立たないように生きている。
そんなすみっコぐらしに見る社会の縮図。
すみっこが好きなことにだって意味があるわけです。ただ居場所がないからすみっこにいるわけじゃない。すみっこ好きにだって主体性はあるんです。
すみっこ、そこはほどよく閉じた場所。背後と側面を囲われ、もたれかかることによる安心感がありつつ、周りも見える。ゲリラ戦における休息の条件を満たします。積極的に他人と関わるのは怖いけれど、とはいえ誰も見えなくなるのはそれはそれで寂しいし不安にもなる。
だから、「あいつは目立つのが嫌いなんだよ」とか「暗いやつだからすみっこにいる」とか「怯えてビクビクばかりしているくせに」などと言われても、そんなお前人の気持ちも主体性も知らないで属性付けてわかった気になってるなよ、と思ったとしても言わない、心優しき世界中のすみっこ好きたちに捧げる愛の歌。
歌うのは、原田知世。清い。
寒い日に毛布に包まって暮れていく日をカーテンの隙間から感じているときに聴くと目から汗がとめどなく流れ出します。
仕事や学業、プライベートにも生きにくさを抱えて、絶望することがあっても、もしかしたら自分にも居場所というのものが見つけられるのかもしれないし、もう少し生きていていいのかもしれない。決して大げさなどではなくそう思わせてくれるからこそ、すみっコぐらしは地味にファンを獲得し続けるのではないでしょうか。
救いであり、ある種の福音であり、それは拠り所。
そこに行けば、すみっこがあり、すみっコたちがいて、何をするわけでも何を言うわけでもなく、ただ腰を落ち着けてほんわかする。
すみっコぐらしを好きな人たちの多くは、それがどれだけ難しくて尊いことか、身にしみてわかる人たちなんだと思う。
優しくて、無口で、気付くとそこにいて、一緒にいると温かくて、安心する。私たちはそういう存在に憧れて、でもなかなかそうはなれなくて、そういう人にいつも甘えてしまう。
あなたの周りに優しい人はいますか?
そんな、私にとってもすみっこみたいだった今はもうどこにもいないあの人のことを想いながら、あの人が好きだったすみっコたちの優しさに触れる90分は得難いものでした。

そもそも、すみっコぐらしはいわゆる「メタい」作品世界です。
彼ら(?)すみっコたちは、それぞれ抱えたエピソードに沿ったキャラクター性で動きます。メタいというのは、ナレーションやこちらの視線への反応というよりも、たとえばアームという存在に表れています。
そうです。あれです、クレーンゲームのアームです。あれが、たまに表れて、『ずるい方法ですみっこを占有したすみっこをどかす』『置いてけぼりをくらったすみっこを仲間のもとに連れて行く』のようなふるまいを見せます。つまり、つまり?彼らはぬいぐるみで、設定から何からぬいぐるみたちの妄想、クレーンゲームが見る夢なんじゃないか?ここに俺の娘が写っていたんだよ。ほら、こんなに笑って
いや、そんなことはこの際どうでもいいのです。

すみっコぐらしでは、あまり“ともだち”という言葉を使いません。たまに出てくるんですが、基本的には“なかま”を使います。
香取慎吾を薄目で見てもなかまと友だちどちらがより親密かはわかりませんが、すぐに友達を名乗りたがるタイプの人たちの軽率さはそこにありません。
何かを共有するゆるい繋がり、多数決的で身勝手な同調圧力のかからない人間関係、後ろ向きな思いやりと気遣いへの善的な理解。これらは、人間関係の積極的な干渉と構築を望まない人にとってとても重要なことです。
社会の仕組みに対して受動的であれという意味ではなく、常に積極的に他人と関わることが社会参加の唯一の関わり方ではないけど、なし崩し的、巻き込まれ的にでもある瞬間勇気を出して誰かに関わろうとすることがあってもいい。
すこし気を許せる人同士なら、一年に一度くらいは朝日を見に丘を登ってきれいだねうんと頷きあうことだってできるかもしれない。
だって、私たちはなかまなんだから。
すみっこを譲り合って疲れてしまうなかま。
とっさにありがとうが言えなくていつまでも悩み続けるなかま。
離れていてもわすれないけど相手が忘れてしまったら悲しいなと思いつつも連絡を取ったら迷惑だろうしと疎遠になってしまうなかま。
あのときかけるべきだった言葉を胸にしまったまま別れたなかま。
お互い一方的に友だちだと思ってる両思いなかま。

もし、すみっコぐらしという存在に触れて、ぼんやりと胸のどこかが温かくなったりチクリと痛みを感じたら、そんな“なかま”のことを思い出して欲しいと思います。
あなたがそう思っているなら、相手もそう思っていることは少なくないです。優しいのに、優しいから友だちの少ないあなたなら特に。

ついと、部屋のすみっこを見やって、誰にも見られないよう目尻を拭う。

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