『親の愛など知るものか』を読んで

「美しさは罪」とは誰の台詞だったか。

何かに心を奪われたなら、まだどうにかがんばれば返してもらえる可能性もなくはない。
では、何かに心を狂わされてしまったら?
狂ったものはなかなか元には戻らない。もうそのあとは一生引きずることになる。
なぜなら、本質的にこの世界に正常は存在しないから。
罰として。咎として。古タイヤを。さあ走れ、炎天下のグラウンドを。ちゃんと水分と塩分は摂れよな。
つまり、一度でも魅入られた者にタイヤを一生引きずらさせる力、それが美しさである。
そしてそれは時に本人にも牙を剥く。
ざまあみろ。
や、言いたいのはそういうことじゃないんだ。

一連の作品がスターシステムなのか全く同じ教室の中なのかはさておき(こういうこと言うのを興醒めという)、今回はSF要素は微塵もないミステリーである。不璽王さんも懐が深いですな。

構成も3人組に異物が1人という、ズッコケたり庭だったり空き地だったりするジュブナイルミステリーの王道路線であり、それを意識してなのか意図的にテンポを前作までよりも軽快に書いてあるように思う。ちゃっちゃか読める。たったか?とっとこ?
その分、直接的な百合の要素は極めて薄い。(と思う。これに関しては決して麻痺しているわけではないと思いたい。)
なのにしっかり百合小説をしている。気がする。

全体の流れは私=夏川しおんの淡い恋心を中心に一人称で進んでいくが、物語自体は「アイドル顔の村山穂邑」の、大雑把に言えば“美人ゆえの受難”が軸になっている。
ただし中心となっているのが北口日和の存在なのは、しおんの淡い恋心ゆえである。

この北口日和は、生まれ変わりを描いた「人をやるのが一回目」においてもキーパーソンとなっているが、同一人物かどうかはわからない。ただ、精神的な成長期ゆえなのか悪意のない口の悪さというか自然体の無礼さの表現に磨きがかかっている。
代わりと言っては何だけど、あっちの北口日和が放っていた剥き出しの毒牙というか、むしろ錆びた釘のような攻撃性は描かれていない。

この三人は、ごく自覚的に自分たちの顔面高偏差値という飛び道具を利用して連んでいるタイプなのに、どこかいわゆる“陽キャ”にはなりきれていないのも読みどころというか、ポイントかもしれない。
人生チートっしょみたいな生き方をしているように見える人でも、内面を掘り下げれば人知れず悩んでいたりするものだ……とかそういうんじゃなくて、根本的にどこかに人生に対する諦めがあるからこそ容姿をフル活用することを選んでいるように見えるというか。

利害関係の見当たらない他人からわざわざ悪意を読み取ろうとするような部分も、他人に期待するだけ無駄だという人生訓の裏返しに見える。
ある程度大人になると、こういうのを「今どきの中学生」と思いたがる。もしかしてあなたも、聡明だったり多才だったりするガキをみて、「自分が中学生の頃はもっと阿呆だった」と言って褒めようとする大人になっていないだろうか。
下げるものがないから自分を下げてガキを褒めようとするんだろうが、褒められた方のガキは褒められた気などせず、「は?てめーがガキの頃阿呆だったとか知らんし草」としか思わないあれ。

もっと過去の自分を大切にしろ大人。

さて、個人差はあるにせよ、小学校高学年から中学生の子供は足りていない語彙で世の中の理不尽と戦っているものだと思う。たぶん。
北口日和ほど本能的に世の中の仕組み=理不尽に触れてしまうことはないにせよ、人間の根源的な悩みであり死ぬまで(死んでも)答えの出ない不確定な未来への不安と、他者との「わかりあえない」関係性に躓き、ぶつかり、へたり込む経験は大抵の人が通る何かしらの儀式みたいなものだ。なし崩し的な通過儀礼とでも言おうか。

もし、そこに直感と語彙さえ用意されれば、見た目には関係ない者同士がピタゴラスイッチのように干渉しあっている様を感じることができるのかもしれない。「おとなっぽいねー」と言われる中学生の見ているものを。

まぁ、見えなくていいか。

話を戻したいところだが、戻るところも特に無い。

ところで、歯の治療は最も身近に無防備を晒す行為のひとつではなかろうか。
一般的に一般人は忍者ではないので無防備な瞬間というものはいくらでもあるものだが、リクライニングシートに横たわり自ら他人に対して大口を開けることによって成立する、恥辱の類である。
しかも相手はドリルを持っている。どう考えても勝ち目がない。更にそこに密約が絡むことにより村山穂邑は生まれた時から負け確なのであるが、更に『歯医者の後は焼肉』というファクターが加わることにより、趣が変わる。急にミステリーの様相である。

そう、この話は最初に書いたようにミステリー、もっと平たく言えば謎解きが軸になっている。
そして、また同時に変態猟奇小説でもある。

不璽王さんの小説は、同一軸上かつ同一文体上にある物語(サーガ)を、ジャンルを限定せずにそれぞれのフェティシズムにより切り取って書いたらどうなるのだろうか?という実験的な様相を持っているように思うが、そもそも生きていれば色んなことが起こるのでそんなの当然といえば当然である。毎回人が死んでたまるかよ。

あともう一つ、ここに書いとかないといけないことがある。
『百合に挟まる男問題』である。

頭が痛い。『眼鏡を外したら美人問題』と同じくらい根深く、無益で無意味な議論が続いている。
無謀すぎるが、一応触れない訳にはいかない。触れ方によってはデリケートな話題なので、ネタにして誤魔化したいところでもある。
しかし、その“ネタ化”が問題の根幹にあるとも言える。
画一的な物語造形とマンネリを批判する文脈と、ステレオタイプなルッキズムや男女関係を擦り続けることへの懐疑とでも書けばそれらしくも聞こえるかもしれないが、結局のところフェチを理由に「百合に挟まる男を殺せ」と言っておけば楽しいねみんなでワイワイ盛り上がろうねになってしまいがち。
男が挟まるストーリーラインの作品は元から百合モノではないのでは?と個人的には思っていて、問題はそういう“フェチ=男根堕ち”の作品が、レズモノもしくは百合モノと表記され分類されてきたというところにある。

研究してる人がいくらでもいるので、あまり適当なことは書かないが、女性同士の心理的な関係性に男性が介在しない(周縁に存在はする)という世界観を理解するのが難しい男性は少なくないというのも大きい。

じゃあ、そこから逃れつつ、百合に男子を介在させるには……というと、噛ませ犬にすらならない道化、もしくは喋るペットのようなものになるのかもしれない。
集団の中で凝り固まった発想を、“異性の視点”というアイテムを使って解こうとするところにドラマ性が生まれるわけだが、その部分をどうやってシリアスにせず、さらに持ち上げずあくまでコミカルに表現するか。
絶妙に気の利かない空気も読めない、でも無害(おそらく)で勉強はできる育ちの良い勘違い陰キャ男子が登場することになる。
そして、その男は間接的に“関係者”でもあるというのは、読者の不快感を丸く収めるのにもちょうどいい。
なぜなら、存在が不快に描かれるから。
百合に挟まらないのに不快とはこれいかに。
これいかになんて言葉を使うの超恥ずかしい。

まぁいいや。

最後に、私がこの小説の中で好きなのが、「私の家族の恥部が暴かれるかもしれないけど、結局家族ってどこまで行っても家族で、私自身ではないじゃん?」
と、“探偵ごっこ”を打診された穂邑が応えるシーン。
達観と捉えるか、思春期独特のそれと捉えるかは読者によろうが、この物語における“オチ”までたどり着いた時に、なんとなく腑に落ちるのではないかと思う。

親の愛など知るものか | 不璽王 #pixiv https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14113981

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