『人をやるのが一回目』(不璽王・作) を読んで

始まりの人はどこから来て、終わりの人はどこへ行くのだろうか。そもそも、始まりの人は終わりの人なのではないか。終わりとは何か。
私はあなた、あなたは私。私は全、そして一。
手塚治虫の『火の鳥』を読みながら、考えたことがある。
もし、命が転生を繰り返すのなら、一つの魂があれば済むのでは?と。場所を超え、時空を超え、形を超え、あらゆる生命は、生と死の反復運動を繰り返す。
そこに意味はない。反復運動を続けることこそが生命の存在する必然だから。
じゃあ、そこに意味を持たせたら?

「人類っていつかは絶滅するじゃん。絶対」
バカは真理に到達しやすい。それが端的に表された良いセリフだ。
「性格が悪いだけで、素直で優しい」
つまりそれがバカ。
論理的飛躍を経たのではなく、バカはその純粋さゆえに、世界の真実に触れてしまっているのだと思う。俗に言うアカシックレコードというやつだ。
バカは四六時中トリップしているのと同じなのだろう。
「いつか」が他人事ではないということに思い至ることがないのもバカゆえだ。
そして、バカは人間の回数が少ないからバカなのかといえばそんなこともなくて、多分、生きることに不器用なのと、知性には相関性があまりないのではないだろうかというようなことも考えられる。
もちろん、私個人が輪廻転生を信じているわけではなくて、もしそんな世の理があったら……という条件の下という意味だが。
SFを読んで語るのに、そんな言い訳は必要ないのだけど。

(先日リリースされたばかりの黒木渚の新しいアルバムの最後に“しーちゃんへ”という曲があって、読んでる間ずっと頭の中でそれが流れ続けていた。おかげで胃が痛い。)

子どもの頃、母親から「昔、友達に、もし輪廻があるなら、人間がたくさん増えたら他の生物がどんどん減るんじゃないかという話をしたら、危険思想だと言われた(意訳)」というような話を聞かされた。
危険かどうかはわからないけれど、センシティブで棘を持つ考え方だとは思う。
人の魂とゴキブリの魂と一緒にするな、例えばそう言いたくなる人の気持ちもわからないではない。
あなたの前世は大腸菌ですね。
はぁ……。
それを知ることは、少々ショックなことであろう。
冒頭に引用された「猫は猫になる 人は人」の部分、そして、“解脱”し『消えていく』人たち。
人が人の魂のみをリサイクルすることは、ある種の救いであるような気はするし、おそらく作者である不璽王さんの性根としての優しさであり、同時に残酷さでもあるのではないか。他人に孤独を突き付ける人が優しいかといえば、それはひとそれぞれ解釈が分かれる。
だからこそ、御影という人物の人としての達観こそが、この物語の優しさであり、残酷さの象徴なのだろう。
突き放した優しさを、優しいねと受け取るために必要なのが人間の回数であり、その軽薄な残酷さに気付けることもまた人間の回数ゆえではなかろうか。
しかし、人は誰も彼も素直でない上に、底意地が悪いものだ。総じて性格が悪いと言ってもいい。そして百合小説の基本は、底抜けの意地の悪さで成り立つのではないか。

未来と刹那的な充足感を天秤にかけた、百合。
いや、百合って何なのだろう。
彼女たちは、百合の花を背負って大ゴマで現れたりはしない。壁越しに見つめ合って愛の言葉を囁いたり、人混みの中でそっと手を繋いでみたりもしない。むしろ、髪の毛を掴み合って引っ掻きあって、転げまわって教室の中をひっちゃかめっちゃかにする方がお似合いだ。ロココ調のベッドの天蓋に彫り込まれた飾りではなく、マクドナルドの壁紙がよく似合う。
彼女たちが互いに抱えるのは、空虚な独占欲でもなく、愛欲でもなく、憎悪でもなく、執着でもなく、そしてそれらすべてでもある。
大切なガラス細工をわざと床に落として、割れた破片を拾い集めて泣くような、指先の絆創膏を窓にかざしてニヤつくような、自己陶酔。
他人を罵倒し傷付けその反応を得ることで、自己愛を確かめること。
愛する人の耳を削ぎ落として、瓶に詰めて腐らせていくのを毎日観察すること。
それらは、本質的には、同じ。
彼女たちは愛しい人の横顔を見つめ続けるためだけに、未来を殺すのだ。

「野原さんは絶対死んじゃダメ」
何度読んでも、これを書いたときの福楽の気持ちがわからない。
野原が、最も残酷な福楽に会いたいと願う気持ちもわからない。
「私の」「目の前で死ぬんじゃねーよ!!」
そう叫んだ時の北口の気持ちもやっぱりわからない。
だけれど、どれもしっくり来るのは何故だろう。
私の中の総体としての女学生が「わかる」と呟く。
人は、どんな顔をして消えるんだろう。
どんな顔をして死ぬんだろう。
最期の瞬間、何を思い出し、心を終えるんだろう。

オートリバース。

果たして、こんな結末で誰が救われようか。
たった一人になった命は、もう紡がれることが無い。
確かに存在したという、匿名性と公共性の高い痕跡だけを残して、各々のパーソナリティは消えていく。いや、本当は最初から存在しなかったのだから、消えたというのは正しくない。最初の一人に、一つの魂に還元されていくのだから。輪廻から解き放たれて。
生まれながらにして、人は業を背負っているそうだ。おそらく、命による生と死の反復運動に意味を持たせると、そういうことになる。その業を浄化するため人は何度も人間という生き物の生涯ををやり直し、「完全」を目指すのだ。それがどれだけ困難なことかは、人類の総人口から自ずと知れよう。
だから、完全になったら、人は救われるということになっている。
じゃあ、野原智慧は救われただろうか。人という可能性=シミュレーションを全て記録したデータベースのオリジナルであり、完全体である野原智慧は。
膨大なシミュレーションの果てに、唯一無二の、完全なヒトとなった彼女は、消えていく人の世界を見つめながら、たった一人になったその時に何を思っただろうか。
他人はノイズだ。
誰かを大切に思うことは、ノイズの中に耳を澄ますことだ。 煩わしさの中にあるからこそ、そこに価値を見出すこともある。
しかし、いつしか一切のノイズは消え失せ、春には桜の花びらが空を埋め尽くすだろうし、涙を拭いてくれる人はもういない。
そんな静けさの中で思い出す誰かこそ、一番愛しい人ではないだろうか。

そして、校庭に残ったかすれかけの白い線も、誰に踏まれることなく風の中に消えていく。

以下リンク

『人をやるのが一回目』by不璽王
第2回百合文芸小説コンテスト応募作品
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11892720

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