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BPM 83

2020年、あっという間に半分が過ぎていき、気付けばもう夏だ。

昨夏劇場に「アベンジャーズ/エンドゲーム」を観に行ったときには、人類が半分滅亡した後のあの陰鬱とした世界(冒頭のシーン)がまさか現実になるとは思いもしていなかった。元々サノスは気候変動のメタファーだったが、現実世界がそれを凌駕してきたのだからたまったもんではない。おかげでぼくも当初の今年の予定はほぼ無くなったと言えるし、マルチユニバースの存在を空想する今日この頃である。

年度末の頃、ぼくは珍しくこれから1年の計画を立てて、っしゃあやったるで!などとにわかに勢いづいていたのだが、繰り出したパンチも空しくノーゲームとなった今、もうあの時の元気はどこかへ行ってしまったのであった。代わりに無限の「おうち時間」なるものを手にしたわけだが、まあそれはそれで色々できて良かったのではないかと振り返ると思う。無限だからまだいつ終わるかわかんないけどね。

最近は友達に誘われて免許取得に苦戦しているのだが、やっぱりぼくは歩くのが一番好きだなあ、と運転の最中なのによく思っている。先日受けた適性検査でも運転に最も向いていないタイプに分類されてしまったし、もうこの気持ちは高まる一方である。お前、そんなこと言ってんならやめちまえ!というご意見はそっと横に置いておいて、ここはぼくが歩くのが好きだという話をさせてください。

元々ぼくはあちこち歩き回るのが大好きなのだ。コロナ以降は家の近所を散歩するくらいが限界だったが(それでも毎日のように歩いていた)、それまでは歩けそうな場面に出くわすと、公共交通機関には目もくれず嬉々として歩く変人のような生活を送っていた。家から駅までの20分、目的地の一駅前で降りて歩く、などは日常的にしていたし、大学からいけるとこまで歩いて帰るなんてこともしていたが、今思い返すと結構ヤバい奴である。他にも一人で旅行になんて行くと、止める人がいないので一日中何でもないような街を歩き回って終わる日もあったのだった。

現代には様々な移動手段があるっていうのに、どうしてわざわざ歩くという選択なんかするんだね、とぼくの中の常識人が言うのでここはちょっと考えてみようじゃないか。

まあどんな人でもちょっとした移動手段として歩くことは毎日のようにあると思うが、実用性の面から積極的に歩くことはほとんど無いだろう。

運動のために歩いているという人は結構いるかもしれないが、ぼくはどちらかというと娯楽的な理由から歩いている。風景を楽しむため、音楽を聴くため、大体そんな理由である。歩いていて気に入った風景があれば、好きなアングルのところで立ち止まって写真が撮れる。ちょっと気になった路地に入ってみたら思いもよらない景色に出会えたりするのも、歩くことならではの醍醐味だ。

でもそれ以上に、ぼくにとっては音楽を聞くためというのが大きいかもしれない。歩く時間帯に合うプレイリストを作ったりするのも楽しいのだが、ぼくはアルバム1枚を聴く時間に充てることも多い。最近はストリーミングサービスの影響でアルバム単位で音楽を聴くことは減ってきたが、それでも1時間ちょっとのアルバム作品をじっくり聴きたいときには大抵散歩に出かける。何か作業をしながら聴くのでは上手く作品に入り込めないし、かといって家でじっと聴いてるのもなんだかなあ、という時に歩きながら聴くのはぴったりの組み合わせなのだ。

他にも、歩いていると考え事がしやすいというのはよく言われることだ。少し調べてみるとカントも散歩を日課にしていたり、ルソーには「孤独な散歩道の夢想」という著作があったりと、哲学者にとっても歩くことは思考の源泉になってきたようなのだ。ぼくもこれだけ歩いていたら哲学者になれそうなものだが、それは流石になめ過ぎであった。でも確かに一定のリズムで足を前後に動かして歩いていると、ランナーズハイならぬウォーカーズハイ的な状態になってくる。そうすると自然と思考のための余裕が生まれてくるものだ。もしかしたら足を動かすことと脳を働かせることとのスピードは丁度同じくらいなのかもしれない。文明の力で移動速度だけがどんどん速くなってきたが、そこから零れ落ちてしまったものの受け皿に歩くことがなっている気がする。

何だか壮大な話になってきてしまった。近況から話し始めたつもりが知らない場所まで来てしまったようである。さすがにこんなデカいテーマで語れる自信は無くなってきたのでここらで引き返して家に帰ろうと思う。

もちろん、歩きで。


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