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【ホテルを輝かせる人たち VOL.2】the rescape ホテルマン漁師 高田和大(前編)

みなさんこんばんは、ながおです!

今回は「ホテルを輝かせる人たち VOL.2」になります!

「ホテルを輝かせる人たち」ではホテルに関わる人、特に個人にスポットを当て、どんな人がホテルで働いているのか、どんな人がホテルを作っているのかをゲストを招き、インタビュー形式で読者の皆さんにお伝えしていく連載です。


過去の連載記事を見たことない!という方はこちらから ↓↓



今回は宮古島にある「the rescape」に在籍する" ホテルマン漁師 "という独特な肩書きをお持ちの高田和大さんにお話を伺っていきます。

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the rescape
所在地:沖縄県宮古島市
公式HP : https://okinawa-uds.co.jp/hotels/the-rescape/
宮古島のエメラルドの海と、白い砂浜のビーチが目一杯に広がる先に佇む、プライベートハイダウェイ。
企画・運営は沖縄UDS株式会社。親会社のUDS株式会社は東京 銀座のMUJI HOTELなど数多くの宿泊施設を手掛ける。


メディアでは「ホテルマン漁師」として数多く取り上げられている高田さん。記事や高田さんのイスタグラムを見たことが無い方は肩書きを見て「???」となっている方が多いと思いますが、インタビューの中でどんな活動をされているのかも伺ってきました。リッツカールトン沖縄など一流ホテルでの勤務歴もあるお方が、どんな歩みで今のホテルマン漁師になったのかなど、たくさんお話を聞いてきました。


この前編では、高田さんのホテル業に出会うまでの歩み。そしてそこからホテルマン漁師となるきっかけまでを綴っています。

それではインタビュー記事をどうぞ!

(以下、太文字が高田さん、太文字ではない部分がながおになります。)



ホテルとの出会い

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今回はお時間頂きありがとうございます。よろしくお願いします!

いえいえ!
こちらこそよろしくお願いします。

早速にはなりますが、高田さんがホテル業に出会うまでの歩みを伺っていきたいと思います。教えて頂けますでしょうか?


はい。
子どもの頃からホテルマンに憧れていた訳ではないのですが、僕が小学生の時に「HOTEL」というドラマがテレビで放映されていて、そのドラマを見て漠然と子どもながらに、ホテルという場所はなんだか輝いてて、カッコイイというイメージがありました。


ホテルへの興味は幼い時から何となくあったんですね。


今振り返るとそうですね。
ホテルに訪れたゲストに次から次へとアクシデントが起こり、それに対してホテルの色んな部署の人が協力して、諦めずに評価を挽回する。最後はゲストから「このホテルを選んでよかったよ」とホテルマンに伝えられ、ホテルを後にされる。そんなドラマでした。

私はそんな仕事や環境に惹かれたのかもしれません。


なるほど。
それが小学生の時だったんですね。


そうです。


ではその印象があって、新卒でホテルマンになられたのですか?


いえ、違います。
関西の大学を卒業した後、大阪で約2年半、ホテル業とは全く関係のない業界の会社に就職しました。ですが、その仕事が全く上手くいかず、心身とも疲弊してしまって…それをきっかけに会社を退職し、傷心旅行で沖縄県の西表島にいき、そこで初めてホテル業という仕事に出会いました。


そうだったんですね。
なぜ西表島に行かれたんですか?


実は私の兄が西表島に住んでいたんです。
一度リフレッシュするために、どこへ行こうかと考えた時、家族を頼って西表島に行きました。そしてその兄がホテルで勤務していたんです。


ホテルで働き始めるきっかけはお兄さんということですか?


はい。
兄が声をかけてくれました。
これがホテルマンになるきっかけでしたね。


仕事を辞めて、足を運んだ西表島で、今従事されているホテル業に就かれるなんて、ドラマチックにも聞こえますが、お兄さんからの声掛けがなければホテルで働こうという考えはなかったんですか?


そうですね…
そのときはなかったかもしれません。でも人を楽しませるようなエンターテイメント性のある仕事にはもともと興味があったので、そういった点から、どこかのタイミングでホテルに勤務する可能性は考えられますね。


なるほど。
エンターテイメントという言葉がでてきましたが、人を喜ばせたりすることは少年時代や学生時代から好きだったのですか?友達を笑わせたり、喜ばせたり。


そうかもしれないです。
「人が喜ぶと自分も満たされた気持ちになる」という感覚は小さいころからあった気がします。高校時代は地方の劇団に入団させてもらって、社会人の方々と一緒に舞台を踏みました。そうしているうちに、観客を喜ばせたり、感動してくれる姿を見ることがたまらなく好きになっていった感じがします。


舞台!素敵です。
舞台を経験されていることで、接客対応の振る舞いなどにも影響はありそうですね。

その西表島のホテルで働いていた中で、印象的なことは何かありましたか?


離島のホテルに、外資系ホテルが実践しているような「ホスピタリティマインド」を根付かせようと、ホテル経営陣に提案し、週1回全スタッフ参加の「おもてなし講習」を実現させたことです。私自身が司会者となり、「おもてなし」について学ぶ時間を設け、教材ビデオを見てもらったり、スタッフが今まで旅行先で体験した感動エピソードを語る時間をつくりました。

ですが、結果は完全に空回りでしたね。私と他のスタッフとの温度差がすごかったんです。ひとりよがりという感じでした。自分自身が皆のお手本のようなおもてなしができていたかと言うと、そうでもなかったですし、そもそも離島のホテルに外資系ホテルの文化を持ちこむ必要があるのか?と囁かれ、完全に孤立してしまいました。

そんな中、同じホテルスタッフのある方に

「 高田さんココに全然合ってないですよ
他のホテルに行った方がいいんじゃないですか 」


と言われてしまったんです。
さすがにこれはショックでした。ですが、このメッセージを機に、自分がいるホテルを無理に変えようとするのではなく、自分が理想とするサービスができるホテルに行けばいいんだ、と考えるようになりました。今思えば言ってくれたスタッフに感謝しています。


そうだったんですね。


天職と感じる環境

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つまり西表島のホテルで働いていた時は、高田さんのやりたいことがなかなか実現できず、その結果、違うホテルにいこうという考えからリッツカールトンにいかれたのですか?


いえ、違います。
その頃にはまだザ・リッツ・カールトン沖縄(以下、RC沖縄)は出来ていなかったので、沖縄本島にある日航アリビラというリゾートホテルに転職しました。後にRC沖縄で働くことになるのですが、その前に素晴らしい寄り道をさせて頂きましたね。そこで1年ほど働いている時にRC沖縄が開業するということを知ったんです。

西表島にいた時から憧れのリッツ・カールトンで働いてみたいとは思っていたのですが、当時は海が目の前にある環境がとても気に入っていたので、離れることができずにいました。

そんな時にRC沖縄が開業するニュースを知って、海の生活から離れずして憧れのホテルで働ける!と迷わず求人に応募しました。


なるほど。
巡り合わせみたいなものを感じますね。日航アリビラからRC沖縄の開業スタッフに転職をする際は、転職のハードルというのはどうでしたか?やはり高かったですか?


もちろんハードルは高かったですね。

リッツカールトンはまずWEBテストのハードルがとても高いと言われていたので、まずはそれを通過する必要がありました。


そうなんですね。


世界中で同じ仕組みのWEBテストを応募者は全員が受けるようで、その試験を無事通過した後は、採用面接が3回あり、何とか全てクリアをして見事、憧れのホテル社員になることができました。実はその時の面接官が、今私が勤めている沖縄UDS 社長の岡崎さんでした。


え!?そうなんですか?


そうなんです。
当時、岡崎さんはRC沖縄の宿泊部長で私の直属の上司でした。採用面談ではもちろん岡崎さんが担当だったのですが、面談内容は初回から何故かほぼお魚の話だったので、確実に落ちたと思っていましたね。笑

ですが、一回目の面談が終わった後、まさかの二次面接のお話をいただき、さらには最終面接と進み、奇跡の入社を果たしました。


奇跡の入社。笑
面接時の試験官だった方が、今在籍されている会社の社長をやられているというのも素敵なご縁を感じますね。


そうですね。
ご縁と言えば、沖縄UDSという会社の設立メンバーには岡崎さんと私以外の他に3人、なので計5人がRC沖縄から入っているんです。RC沖縄開業時に出会ったメンバーが、一度はバラバラになって、また沖縄UDS設立時に再会を果たす。この映画のような展開に強く惹かれましたし、その憧れのメンバーの中に自分も入っているんだ。と自尊心を強くくすぐられて、ものすごく嬉しかったことを鮮明に覚えています。


RC沖縄が開業する時だけでなく、沖縄UDSが設立する際にも再度つながるというのは本当に素敵ですね。

RC沖縄ではどのくらい勤務されたんですか?


4年半ですね。


4年半リッツカールトンで過ごされて、西表島で勤務していた時に抱いていた「やりたいことができない」モヤモヤ感というのは晴れましたか?


正直なところ、晴れましたね。
ホテルを移って本当に良かったと思います。やはり世界共通のWEBテストであったり、何度かの厳しい面接を受けてまで、おもてなしを学びたい、実践したいメンバーが集まっていましたから、やりたいことの方向性というのはほぼ全員が一致していたんですよね。もちろん、スタッフ間で意見が合わず、衝突もしたことはありましたが、その先にお客様をハッピーにする、という方向性やゴールは一致していたので、互いに理解し合えましたね。


高田さんのやりたかったことと、リッツカールトンが提供するサービスの内容や方向性が一致していたんですね。


本当にそうですね。
当時はここでの仕事が自分にとっての天職で、ここに骨を埋めても良いと思っていました。


すごいですね。
そこまで感じられる仕事に就ける方は、なかなかいないのではないかなと思います。

とはいえ4年半の期間を経て、最終的にはリッツカールトンを退職されるんですよね。


そうですね。
RC沖縄では入社して1年後、ゲストサービスという部署(ベル/ドア/コンシェルジュを統括する部署)の責任者を任せていただくことになり、そこで約3年ほど経験を積みました。そこで日々の充足感、自身の成長も実感していたのですが、それと同時に今後の自分の未来が見えなくなる瞬間が何度か出てくるようになったんです。


そうなんですね。
そう感じたのは何故だったんですか?


主にキャリアの面で不安を抱く機会が増えたんです。実際に人事異動の話が出てきたときに、私が希望する形とは乖離のある内容だったりしました。なのでこのままではいけないかもしれないという考えや、未来が見えなくなるという時がありましたね。


集まり、別れ、また集まり。

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そういった経緯もあって、リッツカールトンは好きだけど、ずっとココでやっていくのか?という自問自答をする時間が増えました。丁度その頃に、沖縄UDSへの誘いのお声を岡崎さんから掛けられたんです。


絶妙なタイミングですね。


そうなんです。
でも残るのか転職するのかは最後まで迷いました。本当に天職と感じていた職場だったので。それでも最終的に環境を変えるという選択をした大きな理由は、ホテルブランドに守られた自身の価値ではなく、自身のブランドを自分の手で切り開きたかったからです。


なるほど。
自身のブランドを自分の手で切り開く、素敵な判断基準ですね。
そして沖縄UDSにジョインされるんですね。


そうです。
私は、沖縄UDSの設立メンバーとして入社したので、社員番号はなんと2番。なんだかんだいって生き残っているな~と感じます。笑


2番。笑
設立メンバーならではですね。


ただ沖縄UDSに入ってからも色んな挫折を味わいました。


そうなんですね。


会長からのひと言

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私は約10年間、ホテルマンとして業務に励んできましたが、ホテルの開業準備というのを1度も経験したことがありませんでした。

RC沖縄の開業メンバーではありましたが、開業にも色々あり、開業1年前からプロジェクトに入り動いている人もいれば、色々な事が議論され、仕組みが決まってきたタイミングで、最後に運営スタッフが現場に入り実行される。私はこの最後のタイミングでRC沖縄に入社していたので、いちから仕組みを考えたりということは経験したことがありませんでした。

なので沖縄UDS設立時において、会社の設立からホテルの立ち上げまで、全て初体験だったので、本当に苦しい思いをしました。


なるほど。


ホテルのスタートは、まず予算収支といった数字関連の業務が多いんですけど、そこに関して私はもともと弱くて。その時は、何をやってもうまくいかない、やっても怒られる、やらなくても怒られる、といった感じで完全に窓際族のレッテルを貼られてましたね。

当然、ホテルの開業もしていないので、自分が長年培った現場でのサービスが出来ず、苦しい時期を過ごしました。


そんな時期があったんですね。


そうなんです。
そんなに悩むような性格には見えない、とよく言われますが。笑 この時期は辞表をいつもカバンに忍ばせていました。

そんなある時、社長の岡崎さんがかなり参っていた私を見かねて、延命措置の人事指令を出したんです。それはUDSが運営するアンテルーム京都への2か月間の研修でした。沖縄UDS第1号のHOTEL LOCUS(以後、ローカス)が開業準備の佳境に入る頃、私1人だけが2か月もの間、京都で働くことになったんです。

これは正直辛かったですね。
他の開業メンバーが必死に開業準備をすすめる中、何も力になれず沖縄からも離れるんですから。いよいよ辞表を出す覚悟が決まったと思った時、ふと他の開業メンバーからある話を聞いたんです。

「彼は大丈夫!彼は現場で1番輝くやつだから、今は待とう。」


岡崎さんが私がいないところで、私には一切伝えられていなかったのですが、皆にこう言っていたとのことでした。


とても素敵なお話ですね。


でも精神的に落ち込んでいる時って、自分が輝いていた時のことを何もかも忘れてしまうんです。心の拠り所をなくしている状態と言いますか。なので、この言葉を聞いたとき、仮に開業後、自分が現場に立ったとしても、そこで輝いている姿をまったく想像できませんでした。


そうなんですか。
本当に苦しい時期だったんですね。


はい。
でも京都での2カ月間の研修を終える頃には、サービスの現場に立てたこともあって、本来の自分らしさを徐々にですが、取り戻すことが出来ていました。そして、沖縄に戻ってすぐに参加させてもらったのが、ローカスのレストランコンセプトを決める会議だったんです。

この会議に出席できたことで、私の人生が大きく動き出しました。

「ホテルの中に生産者がいたら面白いよね」


という話がふと出たんです。
その時でした。その会議に参加されていたUDS会長の梶原さんが

「そいえば高田くん、趣味で魚を獲ってるって言ってなかった?」


と私に話を振って下さったんです。
そこから「高田くん、漁師になろうよ!」と話が盛り上がり、会議に参加していた20人全員が賛同してくれました。その時の私は、今まで開業メンバーには見せたことのないくらい、良い顔をしていたと思います。

それから3カ月後、まさか本当に漁師になってしまうとは、夢にも思いませんでした。


・・・


ここまでが前編となります。


今回の高田さんへのインタビューは、明るいお人柄や今の活躍されている姿からはあまり想像がつかなかった、苦悩や挫折のお話がいくつか出てきました。


それでもそれらの苦労を周りの方々にも助けられながら乗り越えて、今の沖縄UDS入社に至った経緯を伺えました。


後編では、ホテルマン漁師としての活動が本格化するまでの話から始まり、ホテルマン漁師のようにホテルマン×〇〇〇のような兼業スタイルの可能性などを綴っています。


それでは後編をお楽しみに。

では。


ホテルを輝かせる人たち VOL.2 後編はこちらから↓↓↓


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リッツカールトン沖縄 公式HP https://www.ritzcarlton.com/en/hotels/japan/okinawa

世界規模でチェーンを展開しているホテルブランド。
日本では1997年に大阪に初進出し、現在東京、京都、大阪、沖縄、日光の5ヶ所で展開されている。



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the rescape ホテルマン漁師 高田和大 Instagram
https://www.instagram.com/maruma0419/?hl=ja

 高田さんのインスタグラムもCHECK!
素潜り漁の様子をストーリーで挙げられています◎



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ながお Instagram
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