見出し画像

わたしたちは「何者か」になれるのか?〜Day 2 主体的な学びのむずかしさ〜

 不定期連載となります、この“わたしたちは「何者か」になれるのか?”。
 少なくとも「自分」であることには変わらないので、”「何者か」になれるのか“という書き方に、違和感を覚えた方もいらっしゃるかと思います。

 否、違和感を感じて頂けたなら、むしろ幸いなのです。

 ここでいう「何者か」は、どこからどう見ても理想的な、いわゆる「デキる人」を想定した表現なのです。著しく有名であったり、著しく活躍していたり…などなど。

 当面は、各回本論に入る前に、この「何者か」という部分について掘り下げることも行いたいと思います。

 今回の本論は、「主体的・対話的で深い学び」の「主体」というところです。

 いま私が書いた「何者か」になるかどうかは別として、「主体性」は確かに生きていくためには必要なことと考えています。少しずつこの点について紐解いていきたいと思います。

学びの主体性

 新しい学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」を目的としています。5年前に学習塾の教室を開業した際、人口が月平均で1,000人減少してしまうこの室蘭で、地域の灯火のひとつとして存続していくためには、この学習指導要領改定を見越した運営は必要不可欠な要素でした。

 いわゆる「教えない授業」。

 今でこそ、主体性を養う教育方法として知られるようになりましたが、私は5年前の開業時点で、それを意識した運営を行なっておりました。

 学習塾を標榜するのでしたら、定期テストや入試で得点しやすくするための学びを提供するのが一般的かと思います。しかし、私の教室では、そういった「教える授業」は必要最小限にとどめることにしています。

 無論,保護者さんや塾生さんの求めによっては、いわゆる「教える授業」での指導の場面は増減することもありますが、それでも根底には「自主性を引き出す」という思いは一貫させています。

抜けない「やらされ感」

 「また遊んでばかりいて!勉強しなさい!

 「いまやるところだったのに!

 ある程度年齢幅はあろうかと思いますが、一般的には12〜14歳のお子さんのいるご家庭において、こうした会話はよく飛び交うと思います。

 保護者さんとしては、糠に釘なのも十分わかっている。

 子どもとしては、「また始まった…」と思っている。

 そして、学年が上がれば上がるほど、勉強の話しかされなくなる。テストの出来不出来で、自分がいい子かどうかを決められてしまう。

 きちんと腰を据えて話をしようとしても、「どうせ勉強のことでしょ」となってしまう。

 大人の方は、自分の中学生時代を思い出していただければと思うのですが、とにかく「いい学校に行って、いい人生を送るために、勉強を」と言われていたのではないでしょうか?

 そして、まるでそれが再現VTRになるのが当然であるかのように、同じことを自分のお子さんに言っているのではないでしょうか。「大人になればわかる」と言いながら。

 私は、自分の親から、学習面に関してはほぼ全く口を挟まれたことはありませんでした。せいぜい高校1年のときに、物理と数学で赤点を取ってしまった時に「どうしたの?」と聞かれたぐらいでした。

 しかし、学習面以外のところで「大人になればわかる」とねじ伏せられてきた経験はごまんとあったように思います。私の場合は「品行方正であること」や「年長者、権威のある者への顔色伺い」に「やらされ感」が強く残っていたように思います。

 それらが一気に修正されたのは、7年3ヶ月のサラリーマン人生に終止符を打つ際だったのですが、それはまた別の機会に。

言うは易し、行うは難し

 それまで、言われたことをどれほど忠実に再現しているかによって評定を付けられてきた子どもたち。そして子どもたち同士でも自然と生まれてくる同調圧力。

 その中で、いきなり「さあ、あなたが学びの主役です。意見を表明してみましょう。」と言われても、いまいちピンとこないのではないでしょうか?

 事実、私の教室でも、開業当初からややしばらくは「え、こんなに自由でいいの?」という子供たちのキョトンとした顔が見て取れました。

 そこで、まず「何でも言える雰囲気づくり」に努めました。そのためには、「子どもたちだけの世界を作る、楽しい時間」を担保しなければなりません。 基本的には、宿題なし。

 学習にかかわることであれば、何をしてもOK。イヤホンで音楽を聴きながら自習中心にしてもよし、教室の仲間との会話を楽しむもよし。
 希望があれば、希望に沿う形での集団授業をしてもよし。

 しかし当然ながら、「自由すぎると勉強しなくなる」という声と、「その自由度に精神的に救われた」という声と、相反する意見を同時に聞きます。

 そこで、
「やるべきときはやりましょう」
「頑張る人の邪魔をしないように」

この2点は少しずつ教室のルールとして定着させてきました。

 そして、5年が経ち、塾生さん、保護者さんの意見を聞き、時には協力を仰ぎながら、少しずつ形にしてきました。

 その結果として、塾生さんの「やるぞ」というモードでの真剣さが少しずつ高まってきました。

 とはいえ、まだまだ「自分で決めて学びを進める」という実感を、ワクワク感とともに持ってもらうことと結びついていないように感じますので、この試行錯誤はずっと続けていきたいと思います。

 まあ、時代背景、集まる塾生さんの状況等によっては、変わることもあるので、やり方を一つに固定するということはできないとは思いますが、「自主性のある学び」を根底にすることは変えずに進みたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?