小さな私の大師匠
何にでも驚く癖(?)のある私だが、小学生のとき、12月25日がキリストの実際の誕生日とはいえない、ということを本で読んだときは、本当にびっくりした。
親も学校でも世間でも、12月の25日はクリスマスでキリストの誕生日だ、というのが当たり前のことではないのか、と私は本のほうを疑った。そしてどの大人たちに聞いても、皆がキリストの誕生日で違いはない、という。やはりこの本はウソを書いたのかとも思ったが、しかしローマ暦のことや冬至における太陽の誕生説話などとてもおもしろく、子どもながらに説得力を感じていたのも事実である。
そのことは長く心に疑問となって残った。
ずっと後になって、その本に書かれていたことが事実であることがはっきりわかったが、それは、当たり前のように思っていたことが実はそうとは限らない、ということを認識したはじめの経験でもあった。
それとよく似たことが、やはり小学生だった私にもうひとつある。またも本との関係なのだが、そして先の件とは逆に、本に書いてあることのほうが本当とは限らないということを教わる話で、それについて書いてみたい。
私の家族は祖母や伯母とともに住んでいたのだが、父が、日蓮宗のある宗派の熱心な信者である祖母や叔母と、ことごとく対立していた。そしてとうとう家を出、両親と私、弟の4人はアパートのひと間暮らしとなった。そのアパートのふたつ隣の部屋に大学生が住んでいた。前回に記した、私にエスペラントを教えてくれた人である。ある国立大学の理系の学部だというその学生は、ほっそりしたもの静かな人で、澄んだ目が印象的だった。
私はこの学生の部屋に入るのが大好きだった。そこにはずらりと本が並び、独特な匂いがしていた。そして学生は、小学生の私に科学の面白さやいろいろな話を、とても静かな口調で語ってくれた。
ことに数の話は面白く、1,2,3などの整数は神あるいは自然が人に与えたものだが少数や分数は人が作った人工数だ、といったことから、今思えば素数に関する基礎理論ともいえる話を一所懸命話してくれた。そして私が何とか彼の話を理解したときには、きまって「えらいえらい。君は才能あるよ」とほめてくれる。お調子者の私はそれがうれしくて、次々と彼に数学や物理について、またそのほか様々な話をせがんだ。そして数学やその他科学の不思議な世界や感動的な美しさを教えていただいた。
学校では決して教えてくれないこれらの話を、こどもでもわかるようにと、いろいろに工夫して話してくれたその彼は、私にとってこの上ない家庭教師であった。当時の西ドイツの首都ボンで生まれたという彼はドイツ語や英語はもちろん、エスペラントも知っていた。私は「中学に上がれば英語を習うから、ドイツ語を教えて」と言うと、彼は「エスペラントを知っていると世界中のどの国の人とも話せる」というので、私は夢中になって覚えようとした。
もっともこの人造語も、前回書いたような事情でごく短期間でストップし、今は大半が記憶の底に沈み込んでしまって、思い起こすことも難しいが・・・
さて、私はその学生に、当時読んでいた本の中から、いわゆる偉人の伝記について、自分の感想を話したことがある。詳しいことは覚えていないが、偉人伝(キュリー婦人とか野口英世、アムンゼンといった科学者や冒険者達についてであったと思う)に感激してのことだった。きっと私はその偉い人たちのことを読んで、どんなに感激しているか、を話したようだ。それを聞いてくれた後、彼は「でもね、それは事実とは限らないよ」と言い出したので、わたしはびっくりした。そしておよそ次のような趣旨を私に言ったのだ。
伝記というのは、特に子供向けのものは、いい事の面しか書いていない。本当はどんなであったか、いかにエゴイスティックであり周りの人たちがどんなに傷ついたりしたか、それらはカットされて、業績の面だけ強調されがちであること。そのため根拠のないエピソードも、いかにもそれらしく脚色して書いてあることが沢山あるのだ、などなど・・・
尊敬するお兄さんである彼の話は、小学生の私には驚きであった。それまでの偉人伝を読んでいた気持ちに水をさす出来事だった。私は納得したようなしないような、釈然としないまま聞いていたことをありありと思い出す。
彼が教師だったら私にそんな話はしないであろう。実際どの大人たちも学校の先生も、できすぎたエピソードの大半は創作されたものであることや、まして伝記上の人物の負の面なんか子どもに知らせようとはしない。不必要として切り捨ててしまう。それが教育上の配慮だという思い込みからである。
だが、だが、なのだ。その教育上の配慮なるものは、本当に「不必要なこと、子どもは知らないでいいこと」なのであろうか。それは子どもの夢を奪うことなのか。彼が私に語ったことで私は偉人なる人間に幻滅を抱いただろうか。
決してそうではない。彼が語った真意も、単にシニカルに伝記上の人物を評したのではない。また、本に書いてあるからといって何でも信じてはいけない、ということに力点があったのではない。
私は、その学生が語ったことが、そのときは十分理解できはしなかったが、何かしら心に深く染み入った感じをもったのである。そして年を経て、その大切な意味をしっかりと受け取った。
彼はこんなことを私に教えてくれたのだ。
それは、本というものは、あるひとつのテーマをとってみても、多くのいろいろなことが書く人によって取捨選択され、その人なりに整理されて提出されたものであり、そのため除かれたものが無数にあることを、きちんと認識して読むことが大切なのだ、ということ。つまり書かれている事のさらに奥にも常に思いを、思考を、馳せること。それは読書への基本的な態度なのだ、と。
そしてもうひとつ、このことから私が彼に学んだことがある。
それは、子どもに対して、真実思うことを、心をつくして真剣に語るなら、必ず子どもの心に染み渡っていく、ということである。たとえ子どもにそのときは十分理解の及ばないことであろうと、これは大切なことだから今でなくともいつかぜひ知っておいて欲しい、と思う気持ちから出る言葉は、そしてその思いは、間違いなく子どもの心に残されていくのだ。あの学生の真剣な顔、静かながらに熱を込めた話し振り、それは私の心に、今も鮮明に焼き付いている。
小さな私の大師匠は、私が中学へ上がった年に、戻った故郷で 還らぬ人となってしまった。
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