「挨拶」
なにか鬱々とした、気持ちの塞がりを覚えるようなこの頃、コロナ鬱にでもなっているのだろうか。体調も思わしくなく、コロナ禍で仕事からの収入が半減どころか3割にも達しないことの精神的な負担が大きく、気持ちに少しもゆとりをもてないという状態が続いている。
そんな心身ともに疲労して、買い物でぼんやり街を歩いていたとき、私は美しいものに出会った。
二人の年配の女性が道端で挨拶を交わしていたのだが、その姿が実に美しいのである。
ばったり出会ったのであろう、ともに腰をかがめてお辞儀を何度もし合い、言葉を交し合っている。
そのしぐさの優雅さと、言葉遣いの美しさに、私は少し離れたところからついつい立ち止まって見とれてしまっていた。そして何か清々しく心が洗われるような気持ちとなった。
心のこもった挨拶というものは実にいいものだ。
仲間どうし、見知らぬ人どうし、そして他の様々な場面での挨拶は、人と人とを繋げる第一歩としてはたらく。そこにおのずと互いの関係性が表れ、また人柄もにじみ出てくる。
そればかりではない。挨拶はその民族特有の表現形態がある。抱擁するなど体を接触する挨拶の仕方、日本のお辞儀のように接触をしない仕方といった違いはそれぞれの民族における伝統で、民族の、またその地域固有のものだ。そしてまた、挨拶のしぐさとともに交わされる言葉もその習俗を反映している。
もともと『挨』は「押す」、『拶』は「押し返す」という意味で、『一挨一拶』といって禅僧の応答・問答するという『知識考案』における受け答えをさす語だという。それが次第に一般化してきたのだそうである。挨拶に当たる言葉として古くは「物言い」「ことばかけ」などと言い習わされていた。電話の応対で「もしもし・・・」というのは「物申し」からきているようだ。
日常の「おはよう」「こんにちは」など簡略化され様式化された言葉のそれぞれは、人々の関係性を大切にする思いのことばかけで、あらためてひとつひとつのもつ意味の深さや美しさに胸を打たれる。
山を縦走していて、すれ違う登山者どうしが「こんにちは」と言葉を交し合うとき、ほっと胸のぬくもりを感じる。
また秩父(埼玉県)の谷深く分け入って歩いていると、出会った子ども達や大人もかならずといっていいほど「こんにちは」と見知らぬ私に声をかけてくれる。そんなとき、えもいわれぬ温かい気持ちになる。
あるアイヌの婦人の講演記録を読んでいたとき、その冒頭でその方はこう話しをきりだされた。
「イランカラプテ。こんにちは、初めまして、というアイヌ語です。本当は、『あなたの心にそっと触れさせていただきます。』という優しい言葉です。・・・・」
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