「運命の人」なんていないから

先日、恋人と1年記念日を迎えた。
本当にあっという間だったな。

感想としては至って平々凡々かもしれないが。
とはいえこれ以上の本心は無い。

まあ、1年間が濃すぎた。
付き合って2ヶ月弱で同棲し、それどころかマンション購入の話が出たかと思いきや、あと1ミリで別れますという状態が続いたり、義家族との関係性で一悶着あったり。
ひょっとすると、他のカップルが3年くらいかけて体験するのでは?ということを1年で駆け巡った。
これまで起きた色々を考えると、現在平和に隣で生活しているのは大変不思議である。

とはいえ、これからもライフステージに合わせて色々なことが起こるのだと思う。
なぜなら、私たちは「似ていない」から。

以前の記事で「自分にはない性質に心惹かれる」のようなことを書いた。


今の恋人も異質性の最たるものだと思う。
例えば、私は内面世界で閉じこもって延々と自分と向き合うことが好きだが、恋人は外の世界で色んな経験をしてきたタイプだ。
私は他人の顔色を伺い自分を二の次に考えがちだが、恋人は自分のやりたいように信念を持って突き進むタイプだ。
得意なことも本当に異なる。私は金融系からっきし駄目だけど恋人は得意分野とか、逆に恋人は私が得意とする営業のような仕事は向いていないとか。

(このnoteは恋人も見ているので)恋人がどう捉えているかは分からないが、私は本当に本当に違う人間と付き合っているという感覚である。
少なくとも全てを阿吽の呼吸で賄えないと思う。
お互いに対する苛つきも、それによる衝突も、起こることはあるだろう。

でも、それは許容すべきことなんだと思う。
だって、「運命の人」なんていないのだから。


「逃げるは恥だが役に立つ」を観た皆さま、「みくり母」の名言を覚えてるいらっしゃるだろうか。

運命の相手ってよく言うけど、私そんなのいないと思うのよ。運命の相手にするの。意思がなきゃ続かないのは、仕事も家庭も同じじゃないかな?

逃げるは恥だが役に立つ 森山葵

何もかも阿吽の呼吸で上手く進む相手がいるなら、それに越したことはない。自分のことだけをチヤホヤしてくれる王子様(しかもイケメン)がいたらどんなに良いだろう。おとぎ話の主人公として、純粋無垢のままで愛されたらなんと素敵なことだろう。

でも、私達が生きているのは現実だ。
生身の人間がいて、それぞれがそれぞれの思考・感情を持っている。
決して、自分の思い通りに動く手駒なんかではない。
衝突があって然るべきだ。

大事なのは「じゃあ、どうする?」という前に進める思考だと思う。

相手がこちらの意図を汲み取ってくれない?
じゃあ、積極的に自分の意図を伝えていこう。

自分の意図を伝え続けて疲れた?
じゃあ、ちょっと一人になってみようか。それで、折り合いがつけられるところとつけられないところ、考えてみようか。つけられないところは、話し合ってみようか。

どんなに大切な人であっても、決して分かり合うことができない赤の他人だからこそ、衝突を恐れず「じゃあ、どうする?」と前に進めていくことが大事なのではないだろうか。
「分かり合えなさ」を受け容れるべきなのではないだろうか。

ここで、もう1つ逃げ恥の名言を紹介したい。
最終回の平匡さんが、みくりを慰めるためにこんなことを言う。

「面倒を極限まで下げ続けていたら、歩くのも食べるのも面倒になって、息をするのも面倒になって、限りなく死に近づいていくんじゃないでしょうか?」

「生きていくのって面倒くさいです。
 それはひとりでもふたりでも同じで、それは別々の面倒くささがあって、どっちも面倒くさいんだったら、いっしょにいるのも手なんじゃないでしょうか?
 話し合ったり、無理な時は時間を置いたり、だましだましでも何とかやっていけないでしょうか?」

逃げるは恥だが役に立つ 津崎平匡

人と関わるのは本当に面倒くさいと思う。
特に、1人でも楽しめてしまう現代では、尚この面倒くささが際立ってしまう。
他人に愛想を振り向かなくたって、自分らしく1人で生きていったって良いじゃないかという価値観が台頭しているからこそ、じゃあ他者の存在は必要ないのではないか?という問いが立ってしまう。

それでも、誰とも関係を構築せず、ずっと1人は寂しい。
全部1人で賄い続けるのは、2人でいるのとは違う不都合も出るはずだ。
できれば、他人と楽しみを分かち合い、悲しい時に助け合い、そうやって生きていくのが私達人間ではないのか。

だったら、2人で生きる面倒くささを抱きかかえるしかないのだ。
途中しんどくても逃げたくなっても、お互いが無理しすぎない範囲で努力をすべきではないか。

そうすれば、きっと全てをひっくるめて愛すことができる。
今はそう願うばかりだ。

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