#9 対面授業恐怖症

昔から、先生の話を聞くのが極端に苦手だった。

先生に説明されると、わからない。焦って個別に質問をしに行って、一対一で教えて貰っても、わからない。教えられているときはいつも、「その場で、その一瞬で理解しなければいけない」という焦りに駆られて、説明を理解できなくなってしまうのだ。

頭を抱えて、諦めたように教科書に眼を通すと、さらりと理解できる。世界史でも数学でも関係なく。文章を自分のペースで追えるという安心感からなのか、そもそも聴くより読むほうが理解できる脳の構造をしているのか、よくわからないが、思い当たることすべてがもっともらしく思える。

居酒屋でアルバイトをしていたとき、この特性はとにかく裏目に出た。店長の指示、お客さんの注文、すべてのやり取りが口頭で行われる現場で、私はいつも立ち尽くしていた。レモンサワー2杯と黒ビール1杯を4番のテーブルに、今来たお客さんを6番に通しつつ上着を預かったら、お手隙で1番の注文を社員さんに通しといて、と先輩。ぼんじり2本と和風オムライスがもう用意されたまま1分以上サーブされていないぞと店長が1階から怒鳴る声はいつも、霧の彼方から聞こえているかのようだった。「あの、5分前にサワー頼んでもうずっと待ってるんですけど」「ちょっとやめときなよー」。懐かしい。9ヶ月やって微塵も成長しないまま「受験なので休みます」と切り出した私を、店長は「いつでも戻っておいで」という言葉と「もう来なくて大丈夫だよ」という目力で送り出してくれた。

受験のたびに、この特性は効果を発揮した。今の時代に珍しく極端に塾を毛嫌いする母親のもと、高校受験では中三の12月、大学受験では高三の9月下旬に入塾し、一科目しか取らないという条件のもとで私は受験に臨んだ。先生から教えてもらうという時間を極限まで排除した受験生活を過ごしたことで、私はとにかく参考書に向き合い、塾に殆ど金を落とさないくせに自習室に入り浸る塾生であった。母親は塾に興味がなく、塾の担当にも自分の現状を報告せず、どういうカリキュラムで勉強しているのかを誰ともシェアしないまま受験なるものを終わらせた。運3割とよく言われるが、私は運が4割ぐらい働いたおかげで志望校に受かった。今ひとつ確信していることは、もし塾の授業時間をこれ以上増やしていたら、自己管理ができずに受験には失敗していたであろう、ということだ。

本を読んでもわからず、教わって理解するという経験が一度もない、といえばそれは嘘だ。もしかしたら自分は今まで、いい先生に一度も出会ってこなかったのかも知れない。でも、もしそうだとしたら、いい先生ポジションで常に自分に寄り添ってくれた参考書たちは正義だ。活字は言葉より思考に直結する。私の場合は。


今、留学先の大学の授業にしっかり参加していない。

というか、取った授業をキャンセルしまくって、もう3つしか残っていない。

6ECTS(4単位)の授業が二つと3ECTS(2単位)の授業が一つ残っているだけなので、日本の大学で単位換算をしたとしても、2年秋学期は10単位しか取っていないことになる。

まあ日本にいた頃も一学期の取得可能単位は最大20だったから焦るほどでもなさそうだが、優等生で押し切ってきた身としては、少し気まずい(何を今更)。まず、留学に来て大学の授業を楽しんでいないというのはあまりいいことではない。

勉強は楽しい。私が主に勉強しているのはInternational Business界隈で、日本でも社会科学部で経営を学んでいたので自然な流れだ。文献を読んで、わかったつもり止まりだった理論がスッと解釈できたとき、生活の中で思考法が活用できたときに、自分は勉強をしていてよかったと思える。ただ、先生の説明より、先生が提示する文献の方が、理解に直結する。ああ、日本にいた頃と同じだ。

経営を学ぶのは楽しい。企業のことについて調べて、そこから普遍的な事実を見出す。私は別に若い世代をリードするZ世代経営者とかではないので、フレームワークよりも経営理論そのものを学んでいる。ざっくりとフレームワークについて説明を受けると、「他人事感」があるのだけど、理論を学ぶと、身の回りのさまざまな事象を根本から掘り起こして、ざっくりとでも共通点や相違点を見出せるようになるから、楽しい。つまり、経営学におけるフレームワークはビジネスケースにしか当てはまらないけれど、経営理論は日常生活や感情の起伏などさまざまなモノゴトに当てはめることができるから、楽しい。この勉強は続けられるな、と思える。


でも、授業は楽しくない。授業をほっぽって本を読んだり、面白そうな動画を見る。Wikipediaを漁る。せっせと夕飯を作る。疲れたらNetflixで英語のリスニングをし、推しを仰ぐ。外を散歩する。文を書く。フラットメイトとキッチンで喋る。授業は、やっぱり楽しくない。みたいな生活が続いている。

正直、日本の大学の方が授業は楽しかった。うちの大学の授業は割とクオリティが高かったのも確かだけど、それだけではない。なんでだろう。オンデマンドだったからだろうか。オンデマンドは自分のペースで聞けて、集中力が途切れたら停止できたから、とても自分の性に合っていた。オンデマンドの授業を熱心に受けて課題をきちんと提出する、勤勉な奴だった。

むしろ今学期の春に対面授業が再開してから、私は戸惑いを隠せなかった。先生の話は一向に脳が理解できない、何の話をしているのかすぐに忘れる。コロナの影響で学業に影響が及んでいると嘆いているコメンテーターの貴方、私は来るとこまで来て今対面授業恐怖症です、ネタになりますか。ネタにすんなよ。

幸にも不幸にも、私は今留学先であるラトビアの感染状況が芳しくないので、留学当初からすべての授業がオンラインで行われている。今学期は最後までこの状態が続く見込みで、授業は今リアルタイムでTeamsで行われている。

私は、オンデマンド授業は溜めない。溜めて2週間の女だ。なのでお願いがある、全部オンデマンドにして欲しい。友達ができないのがすごくすごくすごく辛いけど、もう対面授業は怖い。友達ができる機会が別にあるのならば、もう対面授業じゃなくていい。討論やプレゼンならまだ意義はわかるけど、もう教わる授業に対面であることの意義は、私には見いだせない。私、社会でどうやって生きていこう。不安だ。

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