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#11 ローマでひとり

2021/12/04 22:54
お昼に食べたピザのせいで、上顎の右半分の皮がすっかり剥けてしまった。やっとローマでピザを食べるのだと張り切っていたのと、相変わらず一人客が自分だけで所在なかったこともあって、確認もせずに熱々のピザに食らい付いてしまったのだ。一口目でしっかりと火傷したので、全体の殆どを左頬だけでなんとか食す羽目になり、とても優雅にピザを楽しんだとはいえない結果になった。ぷっくりと水膨れになった皮を、トレヴィの泉を眺めているフリをしながら舌で器用に剥がし取り、指でつまみ取ってジェラート屋の前のゴミ箱にポイと捨てた。それ以降ずっと火傷がヒリヒリして気になり、舌の位置がずれるたびに感じる痛みが煩わしい。夕飯には美味しい12€のスパゲティを食べに行ったのに、痛くて痛くてあまり味わえなかった。すごく美味しかった気がするのだけど、確信が持てない感じ。食べ物を舌の中心に持ってきて味わえないと美味しさも半減するようだ。勿体無い、今日明日で治る火傷なのだろうか。火傷とはそういうものだったろうか。火傷した次の日の痛みがどんなものか、毎度毎度忘れてしまうから思い出せない。ジェラートをたくさん食べればどうにかなる、とほざいて250mlの瓶ワインを口に含んだら、ピリッとした苦味の前にピリッとした痛みにやられて気が弱くなった。

連日イタリアンを食べ、順調に肥えてきているようだが、正直なところ食事を心の底から楽しめていない。「ああ、イタリアンは美味しい料理だなあ」という感想しか生まれない。それはそう、イタリアンは一人で食べるものじゃないから。ローマでイタリアンを食べ回っていても、私のように一人で黙々と食べている人はまず見かけない。イタリアンは誰かと一緒に食べる料理で、一人で食べるのには味気なく、団欒の中でその魅力を最大限に発揮するのだ。それは本場ローマだからというだけでなく、日本でもイタリアンというのは誰かと一緒に楽しむものである。そう考えれば、本場ローマの高評価パスタよりも日本のマンマ・パスタのかぼちゃのニョッキの方が美味しいと感じるのも無理はないのか(正直、マンマ・パスタのかぼちゃのニョッキは、こっちのパスタと争えるくらい美味しい)。

団欒と、イタリアン。
団欒好きな母がたの祖父祖母は、ウチの家族や従兄弟家族が東京で会するたびに、近所のマンマ・パスタに連れて行ってくれた。我が家が5人で従兄弟家族が4人なので、合計11人の大世帯。マンマ・パスタでは、プリモ、セコンドとメイン料理を分けることこそなかったものの、最初にアペタイトのサラダをみんなで分けて食べて、次にパスタやピザをひとり一皿頼み、お代わりし放題のパンとオリーブオイルも注文する。別で数百グラムのローストビーフやポークなんかを頼んで、子供から順番に小皿に取り分けていった。大人はまずビールで乾杯した後、メインが出てきたぐらいから料理に合わせてワインを飲む。子供たちはマンマ・パスタの「ワインみたいな葡萄ジュース」を頼み、「空気に触れさせると味が変わる!」と言い張っては、無駄にグラスを回したりしていた(実際になんとなく味が変わっているような気がしていたのだけど、どうなんだろう)。
祖母はみんながたくさん食べるのを見ているのが一番幸せらしく、自分が注文したピザの半分を欲しい人に配っては、ウチの母に「自分で頼んだんだから少しは自分で食べて」と呟かれていた。お皿に残ったパスタソースや肉汁、小皿に出したオリーブオイルまで、綺麗にパンで拭い取って口に頬張る。いやあ食べた、もうこれ以上は死んじゃう、はずなのに、ドルチェのワゴンサービスとなると嘘みたいに別腹が用意されるのが常だ。ワゴンにあるケーキをウェイターさんに一つ一つ紹介してもらった後に、好きなケーキを三つ頼むと、ウェイターさんが真っ白なプレートにケーキを少しずつ取って、端っこにホワイト・チョコ・ストロベリーの3種類のソースで絵を描いてくれた。私含む子供たちは、それらの絵を崩さないようにケーキを食べつつも、途中から諦めてフォークで丁寧に掬い取って食べた。大人も食後に甘いものを食べたい人はケーキを注文し、そうじゃない人はコーヒーを、、、これが、イタリアとの差。食後のコーヒーはイタリア人どころか、日本人くらいしか飲まないというのは、ローマに来てからネットで色々と調べて知ったことだ。

今考えれば、他にも日本で楽しんでいたイタリアンと本場ローマのイタリアンの違いは幾つかある。例えば、大好きなマンマ・パスタの定番サラダはシーザーサラダで、そもそもローマ及びイタリアの産物ではない。1920年代に、メキシコの有名なレストラン「シーザーズ・プレイス」(Caesar's Place)のオーナーだったイタリア系移民の料理人が考案したもので、じゃあローマでサラダはどう食べられているかといえば、基本的にはオリーブオイルと塩らしい。他にも、ローマのイタリアンレストランでは基本料理を頼めば必然的にパンがサーブされるがマンマ・パスタのパンはメニューの一つであって頼まないと出てこない。こちらのパンは、美味しいのはもちろんだが冷めているのが基本で、割とパサパサしている。それが当たり前。一方マンマ・パスタのパンは細かくいえばパンではなくフォカッチャで、お代わりのたびに出来立てフワフワのフォカッチャを持ってきてくれる(ウチはお代わりの頻度がすごかったので、ウェイターさんはよく2,3倍の量を持ってきてくれていた)。こっちとしては出来立てのフォカッチャの方が嬉しいけれど、「本家は本家」なイタリア人にとっては「そんなケッタイなことしないで普通に普通のパン持ってきてくれや」と言われそうな気もする。

ローマに来て数日。ランチはまだ楽しめるけど、一人のイタリアンディナーがなんとも寂しい。美味しいパスタに巡り合うたび、妹に一口あげて「本当だ」と言って欲しいと思うし、他のテーブルがAperitivo(食前酒とおつまみ)を分けて楽しんでいるのを見るたびに、独り占めにするには少し多過ぎる生ハムを7対3の割合で祖母とシェアしたりなんかしたいと思ってしまう(日本でやったら絶対他のみんなに横取りされて2割くらいになるけど)。

イタリアンが好きだ。19歳にして本場イタリアで毎日イタリアン三昧のひとり旅をしているなんて、余りにも贅沢だ。しかし、自分がきちんと料理を楽しめていないのだ絶対的な事実であり、その証拠に今日までに訪れたローマのレストランで、夕飯に30分以上居座ったことがまだない。どれほど素敵なレストランだと思っても、だ。優しくしてくれたウェイターさんに「こんどは誰かと来ます!」と念じながら、ひっそりとレストランを後にする。
ひとりイタリアンは目のやりどころがなくて困る。料理を食べている間、外や周りの人を眺めたり、料理を眺めているだけだとどうも居心地が悪い。携帯は行儀が悪いから見たくない。最終的に、視線は料理に釘付けになり、食べることだけに食道や舌、手首が集中する。時々目があって「美味しい?」と聞いてくれる優しいウェイターさんたちも、チラチラと自分を見る周囲の客も「せっかくのイタリアンなのに、一人ぼっちだなんて一体何があったんだろう?」みたいに思われているような気がしてならないし、そういう視線を感じる。というのは私が意識過剰なだけなのかもしれないけれど、でも「イタリアンを黙食するなんてこいつわかってないな」くらいには思われている気がする。Vice versa、もしイタリア人がラーメンを大人数でペチャクチャ喋りながらゆっくり食べてたら、「あー違う!そうじゃない!」て思っちゃうだろうな。いくら食べ方がきちんとしてても。

国ごとのカルチャーの前に、家族ごとのカルチャーもある。もし自分の家族が上述のようでなかったら、自分はそこまで周りの視線などに気にせずに淡々と食事を楽しめていたかもしれない。しかし、自分がイタリアンを好きなのはその団欒があってこそだということに、本場まで来てはじめて気付かされた。「フェリーニのローマ」の食事シーンに出てくる一言「You know the saying: The devil takes whoever eats alone」に核心を突かれ、私は認めた。イタリアンは誰かと食べる料理だ。誰か、大好きな誰かと。

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