屍の香る春

「越冬を」誓って剥いだ面と皮 紡いで羽織り生きながらえた






春は屍が香るというのは、僕の中で二つ意味合いを持っている。

一つが実際の腐敗臭。
母親や友達、僕の身の回りの人には、冬の外気の保冷力を過信しすぎる人が多かった。そして春になっても、冬の感覚のまま食べ物を放置して腐らせていた。微生物の力をあれほど身近に感じることもない。食べ物って案外簡単に腐る。

自然界では、それが普通だ。冬から春にかけて、分解者が活発に動き出す。凍っていた死体も邪魔な雪も融ける。軟らかい肉塊と分解者が出会い、土に混じって肥やしになっていく。それが桜を咲かせると、梶井基次郎が伝えている。

しかし、現代社会ではそいつは融けても行く先がなく漂っている。腐ってはそのままなのだ。


もう一つは、冬から春にかけて殺した関係や環境の臭い。
冬はどうにも越えねばならないことが重なる。
社会が「春が始まりで、切り替わる」という摂理をシステム上でも採用しているからだ。冬はそのために様々なことを整理しなくてはならない。

学生は受験に追われ、会社員は歳末の仕事に追われ、耐えられないのに社会は加速する。それが終われば、今度は次の季節を迎える準備をする。また加速して、もう何が何やらわからなくなる。

生活の許容量を超えると、人は環境への配慮を保てなくなる。
優しくすべき人に、感謝すべき人に、対話すべき人に正しい動きができなくなる。
面倒になって、普段の自分の足りなさも手伝って、その関係を断ったり、不用意に傷つけて、それでまた疲れていく。
新しい環境ではそれを忘れるために、いろいろな自分を偽って作ろうと尽力する。
忙しなさと寒さが、こういった行動への感覚を凍らせている。

春になると、失せてしまった自分の個性と環境、関係性が、これから得られるものと比べても遥かに大きかったと、緩やかに気付いていく。
虚勢が現実を支えられなくなる。自分が抱えなかったから季節を越えられなかった物の屍が、日ごとに融けだして臭ってくる。
何かの肥やしになればいいなんて、まだ思えない屍の臭い。


春になると、よく晴れた日に限って体調を崩していた。
その時には、なぜかキッチンに腐った食べ物が臭っていた。

ゆっくりと後悔が分解されるのを、待つしかない。
春なんてそんな季節だ。

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