嫌われ方を考える

どの環境でも、大抵誰かに嫌われる。
中学はガッツリ、高校は一部に集中的に、大学もほんのり。
そのことを母に相談したら「そういう家系」と。


原因は、その回答に全て詰まってる気がする。
でも腑に落ちてしまったから、もう今世は万人に好かれるのは無理だと悟った。


そういう自分なんだと思うようになると

「上手に嫌われる方法はないか?」

と考えるようになった。


「嫌われる」のそもそも論


グループの中心人物は嫌われない。
嫌われる人間は中心人物になれない。
嫌われた段階で、もうそのグループの中でストーリーを動かす側じゃない。
全員が主人公とかあり得ない。


中心人物に嫌われた人間は、悪役・死に役・引き立て役。率先してこの三つをやるのがグループとして一番貢献できる。
プロレスのヒール、特撮の戦闘員、歌舞伎でいうなら三枚目、五枚目、六枚目に徹する。

これは最早、当たり前である。

プラスアルファの嫌われ


最近これ以上に大切だと気づいたことがある。

「『嫌われていると、気付いていること』に気付かれないようにすること

要は、「きちんと」道化であり続けなくてはならない。ヒールはヒールでも、ピエロはピエロでも
「ヒール(ピエロ)を敢えてやっている」ことを悟られてはいけない。

あくまで「そもそも此奴が愚者が故、中心人物に対して歯向かっている(戯けている)」と認識されることが必要なのだ。
観客に、何より中心人物に「何こいつ俺に合わせて行動してくれてんだ」なんて思わせてはいけない。

どうして貴方はそんなことをするの?と聞かれたらならば
我々は「私が私であるが故だ」と答える。生まれながらである、と。

決して「そうあるべきだから(嫌われているから)そうしている」なんて言ってはいけない。


なぜならば、人に気を使わせてしまうからだ。
そもそも僕らが理由で人を不快にさせている可能性が高い。

だのに、嫌われていることを盾に、関係のない人に気苦労をかけさせる権利はない。
ナチュラルボーンで愚かであるという看板を掲げるだけ、それだけで、周りの人物が僕へ石を投げることに、抵抗をなくしてくれる。
真の意味で役割を全うできている状態は、そこまで行くことなのだ。


役割は与えられるべくして


「それだけなのに、どうして出来ないのだろう。
それが出来ないから、子供のままなんだろう。」

春先の頃の日付と、タイトルと、この二文だけメモ帳に残っていた。
書いた記憶が、ない。

承認欲求をこじらせているのは元々だけれども、無意識がとうとう来るところまで来た感じがする。

そもそも実力がある人が席を勝ち取り、そうでないのにおどけたから嫌われたのだ。
自らの行動の範囲と種類を狭めた原因は自分で、その中でどうすべきか見極めたのも自分であるだけだ。
無意識の自分が綴った変な被害妄想に、自分でツッコんでみた。

出たがりで、自己完結な人間。そりゃ、嫌われるわけである。


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