見出し画像

器用で不器用な人① 「つくる理由」編



「わからない」 その言葉の輪郭を 知りたい自分がいるのは知ってる



 この記事読んで、久々にラーメンズに対してふつふつとよくわからん事を綴っていた頃を思い出し、その当時の日記を引っ張り出して来たところ、面白い文が見つかったので改変して書く、の、その①です。

 

 

 器用で不器用な人に憧れます。
 僕より生きるのが下手そうで、僕より生き方が上手な人に。
 言葉があっても語れない僕は、言葉がなくても語れる人に憧れます。
 

 

なんでつくるんだっけ

 僕は拙いですが、文字だったり言葉だったりを伝えることを好きでやっています。そしてそれ以外の創作だって大好きです。音楽も舞台も映画も(視聴する体力がないのであまり数は見てない)、あと写真とか絵とかデザインとか、ハンドメイド作品や陶芸も好きです。 
 好きというのは、「実際にやった」も「見るだけ」「買っただけ」も込みです。機会と時間とお金があれば、またどこかで触れたいものばかりです。

 そこで振り返ると、
「じゃあなんで俺、こんなにも文章に固執してるんだろう」
という疑問にぶち当たりました。それを僕なりに考えます。

 一つ前提として話しておかないとダメなのが
「人間が創作する根本とは?」について。 
 今でもよく議論されますが、僕は基本的には「自己実現」と「伝達」の混ざったものだと思っています。マズローのいう階層の上の方のあれ。伝達=他者承認だと思っています。
 

自己実現
 人は生きていればいろんな感情を抱きますが、それを的確に形にできないとものすごく気持ちが悪い。だからその気持ち悪いそいつを明確なものに、認識下にしよう。この作業はある種の「自己実現」であるはずです。
 あとで話しますが、「感情の形而下」=「言葉にする」ではないです。

 文字にすると変に見えますが、「『(何かの)表現をしたい』という感情の解決」も自己実現という行いです。やりたい→やる、その変換は欲求が根本です。正確に言うと、「感情を『この表現で』形にしたい欲」かな。しょうがない、やりたいだもの。そこに理由はないのだ。

伝達
 さあ己のクソみたいな何かを形にしました!
 人は欲深いことに、そいつをなんと他人に見せたくなります。そして感想も欲しがるんです。公開オナニーにコメントしろって言ってるようなもの。しかし、基本バッシングを浴びて傷つきたくはないので、なんとか「見せられるオナニー」に仕立てる作業をするわけです。これが「伝達」の部分です。正解はありません。この仕立て作業も案外オナニーだったりします。


 この二つが様々なバランスで表出したものが創作、というのが僕の持論です。10割オナニーの人もいますし、その表現行動をしたい欲だけで「私」の感情は込めてないなんて人もいます。「表現欲が先か」、「出したい感情が先で表現を使ったか」は、鶏と卵の話なので今は置いておきます。
 なんでかはわかりませんが、小さい頃から表現したいこともあったし、うまく伝えることが美しいとも感じていたので、どっちが先かは忘れましたが。
 そして、僕は圧倒的オナニー過多創作の人間です。もちろん他者承認欲求はとてつもなく大きいですが、根本は自分の感情の整理のために創作をします。自分がよくわからない感情に出会うとパニックでどうにも出来なくなるからです。一回、自分の気持ちがよくわからなくて吐いたりもしました。

脱線
 この話をすると「感情の整理」と「思想・行動の整理」をごっちゃにいう人がいて、かみ合わなくなる人がいるので少し言いますが。両者は別物です。そこに関連性は大いに在りますがイコールではないです。

 簡単に言えば「キレた」=「大声を張り上げる」とは考えないよねって感じです。関連するかもしれないけど直結したり、ほかの場合がないのではない。恥ずかしくて大声出すこともあるし、キレて睨むこともある。
「感情の整理」は名前のないものに名前を付ける作業、「思考・行動の整理」は名前がついた物を見やすく並び替える作業に似ている気がします。

 思考・行動の整理は、割と他者との対話だけで解決します。解決方法も案外見つかります。

 感情の整理は僕しか受け取ってないし、僕にしか感じられないものを相手にします。そらオナニーになりますよね。
 この考え方だと他人がどんな表現をしてても納得できます。「その人は、あぁ、それで、僕で言うこれを表したいのかなぁ」って。正解はその人にしかないですが、そこの伝達がうまくいった作品を「名作」って言うのかも。


 

長いので、その②で感情の整理をするために、なんで僕が文章を選んで、そのあと体験したこととかを書きます。本当長い。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?