見出し画像

器用で不器用な人②「何故『書く』」編


爪弾いて鳴らす悲哀が人を圧す 私の語彙より遥かに濃く 



 

この記事読んで、久々にラーメンズに対してふつふつとよくわからん事を綴っていた頃を思い出し、その当時の日記を引っ張り出して来たところ、面白い文が見つかったので改変して書く、の、その②です。
    その①はこちら 


なんで書くんだっけ

 この前は、人はなぜ創作するかという話と、「僕は」感情の整理のために書いてますという話を、つらつらと書きました。
 今回は、現段階で、自分が主たる創作、というか表現として「文章を書く」を選んだ理由について書こうと思います。


防御の根
 

 子供が、最初に「創作を行って」挫折する時って、読書感想文である。そんな気がします。(表現することで挫折するのは、もう少し早い人もいるかもしれません。しゃべっただけで親がキレたとかね)
 「創作」で怒られる話。あれは、小学生への宿題で読書感想文を出す先生方に言える話ですが、難しさを理解しないで怒っている場合が多い。読書感想文に限らず、文章を書くという創作は「正確でないといけない部分」と「自由でいい部分」があるので、そこを分けて指導しないといけません。ここが非常に難しい。僕もほぼ出来ていません。
※この「文章創作の難しさ」の細かい話はまた別の記事でします。 

 ともかく怒られて、そこから僕らは文章にはなんとなく褒められるフォーマットが存在することを学んで、そこに近づけることが、文章という創作だと強く思うようになります。評価に対する『防御の創作』ですよね。

 こうなると、圧倒的にほかの創作が良いものに感じます。だって絵画や音楽、ダンスの方が自由度が明らかに高そうじゃないですか。実際、学校という枠組みの中だとそれは事実なんです。どの創作にもある程度のルールはあるけど、自分を出したいならルールが少ないものを選びますよね。


 ですが、僕はこのルールが一見多そうな「文章を書く」を好きになりました。というより、これをやるしかないような状況でした。
 


防御の創作

 文章を書かざるを得なかった、その理由は「生きるため」です。 
 

 これは、僕がなぜ感情の整理が必要な人間になったか、という話も関わってきます。
 
 子供の頃から僕は
・言いたいことが伝えられず失敗した経験
・言いたいことを面白く伝えられてウケた経験
この二つに対して、すごく敏感でした。

 敏感になった経緯をざっくり話すと
①甘やかされて育つ
②気遣いや他者意識、他者への言語による伝達力が低いままで年を経る
③学校など社会性を必要とする場面で失敗を繰り返す
④周りの反応を見て発言することを覚える
⑤周囲ファーストの発想になり、自分の思考が見えなくなる
⑥自分の考えが自分のものであるかすら、わからなくなる
という感じです。特に⑥に陥ったときは、本当に死にそうでした。

 怒られずに、自分の思考を「正しく」「納得できるまで」整理して、伝える。大変です。ですけどこれをしないと社会では生きていけません。この作業を一気に解決するには「言語技能の習得」が一番早いと考えました。

 もちろん、僕は音楽や絵画を使って「自己表現(≒感情の整理)」をある程度することはあります。イライラしたときにドラムをガンガン叩いたり、謎の絵を沢山描いたりします。

 しかし、自分に対しても、”他者に対しても”便利な表現が、「言語技能」です。自分が何をどう考えているのかを明確に、その考えを他者に怒られないように伝える。これら両面に対応できる最強の手段は、言語を、もっというと「言語のシステム」と「表現」をちゃんと勉強することなのです。

 ”怒り”を例にとって考えてみます。怒りという感情を言語で分解すると
”何が原因で、どのくらい怒っていて、どんな部分が改善されたらこの怒りが静まるのか”。ここまで詰めることができます。

 ドラムや絵を使って、ここまで表現するには相当な技術が必要です。特に他者へ伝達するのはさらに難しい。僕には絶対できません。あの当時、僕が僕を、早急に救う手段には、言語が「機能的に」最適だったのです。
 もしかしたらこれも一種の『防御の創作』なのかもしれません。世の中から僕を守ってくれる表現を、こっそり戦いながら学んでいきました。

 

自分の思考を自分で研磨する

 「言語」から「文章を書く」になった理由にも触れておきます。
 これは簡単です。「忘れないため」です。

 何かを表現し”説明する”ことにおいて、文章が強い理由として「解釈を一意に定められる」という点があります。

 文法というルールに正しく従うと文章は、本来一つの意味・解釈に帰着します。(改行や句読点などの形式ではなく、言葉そのものの論理の話です)ですから、一度考えた内容を、正確に言語化すると、その文章自体の意味は変わらない状態で記録することができます。

 もし、昨日までの思考や発想を、なんとなく頭の中の言葉だけで貯蓄すると、必ず欠落する部分が生じます。文章が一部分を失うと、人は適当に補って形を変える。すると解釈が変わってします。昨日までの思考が別のものへ変形してしまうのです。 

 例えば昨晩、「根拠:A」⇒「意見:α」を生み出しました。これは自分で納得のできる思考であり、人にも説明できる形でもあるとしましょう。そしてこの後、死ぬほど酒を飲んだとします。

 次の日、なんとなく覚えているその思考を人に話し、文字に起こすと
 「根拠:A」⇒「意見:a」になっていました。
 この段階で、二つ弊害が見えてきます。それは

Ⅰ. 論理が破綻する
Ⅱ. 思考の貯蓄ができない

 Ⅰは言わずもがなです。仮に「A⇒a」に自分がなんとなく納得できたとして、記録しないまま明日になると「B⇒a」になります。これがどんどん続いてく。新しい思考を毎日生み出す状態になります。

 昨日の自分と、今日の自分が違う意見であることは全く問題ありません。ですが、昨日の自分の思考が残されていなくては、今日の思考との比較ができません。すると「変化した箇所」「変化していない箇所」が発見できないのです。この発見作業を飛ばすとあたかも「毎日『同じ』正解を出し続けている」という錯覚に陥ります。だってその日一日は正しく思考してるつもりですから。

 それは日々の正解は、一つ一つの正解ではあります。ですがどれも新しい思考ですから、根拠は強くありません。ただ新しくできた「Xという正解」と、昨日できたYという正解と比べて、「『いい部分を取り込めた』Xという正解」。これは圧倒的に後者の方が強いですよね。思考の貯蓄は、今日の自分をさらに強化する材料をそろえるという話です。

 格好つけて書いていますが、昨日の自分の思考を忘れない人には関係ないです。僕は、自分が昨日どんな風にものごとを考えたかすら忘れてしまいます。ですからそれらを正確に残すために、「文章を書く」ことが必要なんです。喋りがへたくそなので「録音」もダメです。考えを覚えているうちに整理して、訂正して記録しないといけません。録音じゃ間に合いません。



防御から快楽に


変な話なんですが、文章にある程度慣れた後は、自分の思考を正確に描写できるのが気持ちよくなっていきました。

 「自分が自分がわからない」ことって怖いんですけど、思考をずっと描写して残しておくと「あぁ、たぶんこういう部分からああいうことしたんだな」と、自分のパターンがわかってきます。そうすると、なにか行動する度、突発的な部分が減っていって、コントロールが効くようになるんですね。これが気持ちいい。非常に快楽。

 よくわからない気持ちの悪い自分をずっと観察していって(今でも気持ち悪いままなんですが)未発見部分が少し減ってきたことで、自分についてあきらめたり改善したりできるようになるんですね。「気持ち悪いなぁ自分」って笑える部分が出てくるように。

 自分がわかると、他人が多少は理解できるようになります。もちろん、みんなそれぞれ違う思考回路を持っていますから、最適解はバラバラです。ただ「俺っていうより、人間はこういう風に考えるのかな」と、文章を書くことによって作った思考は使えます。正直2,3個ぐらいしか良いのはできていませんが。そこもまた快ですねぇ。

 

糧とも術とも使おう

 自分のためだけだった「文章を書く」ということが、自分を少し変えて、だんだんと他人に作用する形にまで持っていけました。ですが自分を作るためにまだまだ書かないといけません。多分まだ普通の人の思考のレベルには追いついていないので。そして、ずっと思考を描写していく中で

「これは、仕事しながら、文章をこなすのは無理だな」

と悟りました。社会生活送るだけですら思考整理で大変なのに……。

 文章で飯食べられないかなぁ、と考えたのはそこからです。これこのまま仕事にできたらいいのに、と。非常に甘い考えです。そして「怒られない」文章から「ウケる」文章を模索し始めて、挫折しかけているのが今日の自分です。こう書くと本当クソみたいだなと自分で思います。

 ですが、ここで改めて、文章をいろんな意味で自分が生きることに広げられたら、と祈りつつ尽力すると記しておきます。



なんとか生きたい

 上の短歌もそうですが、今、言語や表現に関して様々なことに学習中です。noteもなんとか更新を続ける予定です。俺の体調次第ですぐ更新止まりますがね。今のところ、コラム、短歌、コピーに手を出してます。この世間の惨禍で、自宅にこもっているチャンスを生かして努力します。

 次の記事はおそらく、上の短歌に関する話か、読書感想文に関する話を。
 見かけたら笑ってください。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?