月の夜には訪ねて

『近所で女子大生が刺されたって』

驚きと興奮の色を携えて彼が言ったのは、ラーメン屋のカウンターだった。
斜めのカウンターテーブルに苦戦しながら、何とか麺をすすり、横に目をやると、いつも通り眉間に皺を寄せて腕を組み考え込んでいる友人がいた。

彼はショートカットの可愛い彼女と別れたばかりで、最近少しやつれたように思う。

こいつに彼女はもったいない。

俺は常々そう思っていたから、別れたと聞いてすこし胸が高鳴った。彼女は夜どんな声で鳴き、どんな風にその頬に触れるのか、想像しただけで天にも登るようなそれを共有しないのは、彼の紳士たる部分だったが、同時に嫌いなところだった。

『え〜私帰りその近く通るのに』

ラーメン屋でバイトしている女子大生が、彼のスマホを覗き込みながら口をとがらせる。
確かに怖いね。とやっと意見を言いながらチャーシューをわざと箸で崩す。かぶりつけば良いのにそれはしない。

残暑が色濃く出ている今日にラーメンなんてと思ったが、来てよかった。あの通りは人通りが少なく見通しも悪い。彼女を守るためと帰りに食事に誘うのもいいかもしれない。

誘い文句が口をついて出そうになった時、ガタイの良い爽やかなバイト生が、なら僕、送っていきますよと声をかけ話はまとまったようだ。

俺はいつも、一足遅い。

親父にはそれでよく怒られた。お前は何をするにも遅い。ちゃんとしたことができない人間だと。

今では自分でもそう思うようになった。母が亡くなり父親に世話になってきた俺に、父親以外の価値観なんてない。2歳年下の弟はまだ反抗期を引きずっているが、じきにわかる、親父に反抗していてもなんの意味もないと。

ラーメンを食べ終えたころ、彼はまだスマホを見ていたのでスープのそこに沈んだ野菜をすくう振りをして時間を潰した。

ごめん。行こうか。と言ったのでなんとなく少し身支度をして店を出た。夜の風はすこしベタついていて、生臭い匂いがした。

俺はこの夏の生臭いのが嫌いでは無い。少し歩いて帰ると告げて家から逆方向に歩みを進めた。

俺の頭の中はショートカットの彼女のことを考えていた。彼が居ない飲み会で俺がうちあけたことを明るく笑い飛ばし、励ました彼女を、彼が好きなのだろうと気がついたのは次の日だった。

彼女と話す俺を見て嫉妬し、その嫉妬を彼女が好意的に取ったのもすぐに分かった。

そして俺は分かった自分は当て馬だと。

親父もよく俺を馬のように扱った。犬の皿の横にぐちゃぐちゃに煮られてよく分からない食べ物を入れた器があり、それを手を使わずに食えと言われた。

俺は何日も食ってなかったし、とりあえず食えそうな匂いだったから食った。必死だった。それを見て愉快そうに笑う親父に楽しんで欲しくて、わざと汚く食べた。

その日はバイトを休んで3日目だった。
こう暑いとどうしても行きたい気分にはならない。金は無いが、幸い家はあるし、食うものも贅沢しなければ余裕がある。

俺はもうほとんど使っていない地下室に行って、冷凍庫から塊肉を出すと、それを丁寧にタコ紐で縛りチャーシューにすることにした。

あのラーメン屋の箸でほどけるチャーシューはどのくらいの時間をかけて作られたのだろう。

美味しい思い出が口の中に広がり出てきた唾液を飲み込みながら、レシピを調べる。

よしこれだ。ホロホロチャーシュー。
今度こそおいしく食べられるはずだ。

次の日はバイトに行った。店長に怒られながら体調が優れないと告げた。実際顔色悪いよ?もう平気なの?と怒っているのか呆れているのか分からないような声で聞かれ、自分の顔色を気にしてみた。

いつもこんなもんだ。目の下のクマも、荒れた唇も変わらない。何を今更行ってるんだと思いながらコンビニのレジに立つ。

銘柄で注文されるタバコを、わざと分からないフリをしながら何番ですか?と聞くとすごく嫌な顔をした中年男性が、イラつきながら13番と言う。

青い箱のPeace。最近弟はこのタバコの色に髪を染めたらしい。最高の嫌がらせだと卑屈気味に笑いながら結局親父に取り入りたいのだろうと思う。

Peaceの青は親父の目の色だ。

親父はアメリカで軍に入っていた。軍ではこうだったとか先輩に虐められたとか、そんなような話をするのが常で、右足を負傷し歩行がおぼつかなくなって日本に来たのだと言っていた。

親父は母を暴漢から救って、命の恩人になったあとまんまとその家に転がり込んで、俺を作った。親父の綺麗な目と、母の浅黒い肌で僕は何者なのか分からないような生き物になった。

目は黒く色は白い、小さな弟を抱えながら、うずくまり親指を咥え、冷たくなっていたのが俺の記憶における唯一の母の姿だ。

母は事故死と言うことになっている。何があったのかは幼すぎて分からない。親父が何をしたのかも俺には分からない。分からないままが良い。

隣の家が取り壊されることになり、工事の音がしはじめると親父の暴力は、いつもより増して強くなった。
この音は良くない。この音はダメだ。
取り乱し狼狽する親父を初めて見た。
日に日に親父は壊れて行った。
ある日、親父の頭の中は戦争の真っ只中に戻った。銃を探し、祖父の猟銃を取り出すと、流暢な英語で俺に安心しろと言った。
それから、君に罪は無い、早く逃げなさいとも。
そして、逃げようとする俺を羽交い締めにすると、どうして子供を闘わせるんだと言いながら泣いていた。
ずっと気がついていた。親父は壊れている。きっと日本に来たその日から壊れていたんだ。
その後首を絞め挙げられて意識を失った俺は、気がついたら地下室で横たわっていた。
14歳の夏だった。いつもより生臭い夜だった。

公園のブランコは昼間は子供のものだが、夜は大人のものだ。恋人たちがはしゃいでいたり、中年男性が一服していたり。
夜職と思しき女がストロングゼロを飲みながら泣いていたこともあった。
その公園で彼女が泣いているのを見て、今まで感じたことの無い興奮を覚えたのは言うまでもない。
だから、その公園が見えるコンビニで働きながら今日も待つ、彼女が俺に見られるためにそこに来て、泣いて誘うのを。

レジに子供が来た。何日も着続けているであろう赤だらけのTシャツに、弟の手を引いて冷凍食品を買っていく。1270円をやや小銭の多い現金で支払い、冷たいのに手で持っていく。彼らは俺みたいになるんだろうか。あれはかつての俺なのだろうか。

いや。俺はあんなに大切そうに弟の手を引いたことはない。弟の青い髪を思い出して景色がぼやけた。



それが、貴方の記憶ですか?

あぁ、俺が覚えているのはそこまでだ。何があった?

いいえ。何もありませんよ。ボブ。 

何もない?しかも俺の名前はボブじゃない。俺は龍一だ。ボブは…

そうですね。龍一さん。あなたは何もしていない。何も無かったんです。今日も少し記憶が混ざってしまったようですね。明日また考えましょう。おやすみなさい。

周りは白い部屋、白いカーテン、病院のような建物内。白衣を着た女が俺をボブと呼んでいる。

目がぼやける。顔を洗おう。どれくらい寝ていたのか分からないが、ぼーっとしている気がする。少しはスッキリするはずだ。洗面台ある所まで行って顔を洗い、視線を上げる。親父の青い目と目が合った。

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