理性・感情との付き合い方
今日は先月ぐらいに決めた用事を済ませる日だった。家の中から出ないで済む用事ではあったので、用事をこなしつつ、合間にちょこちょこと片づけをしていた。用事の様子を見つつ、できることといえば片付けぐらいだったので。例えば本を読み始めれば、あっという間にそちらに意識が奪われてしまう。その点片づけはへ移行作業にピッタリだ。なんとなくもくもくと手を動かせるし、用事の状況によっては手を止めてもかまわない。
そう、私は片付けを進んでやらない。ちょっと時間があれば、今日は何をしようか…と考えるが、片付けがポップアップすることはほとんどない。
何しようかって考えるとき、その時は感情面の私へ物事の決定権を渡しているので。ちなみに、感情面の私はいつだったか書いた、機嫌ちゃんとほぼ同じ存在だ。やりたいことはやるし、やりたい気がすることもまだやってくれるが、やりたくないことは絶対にやらない。
ただ、物事の決定権を渡すときは、感情面の私は頼もしい。何をやりたいだろう、何を食べたいだろう、自分の思いに忠実になれる。そうして、忠実になれたときはとっても満足感がある。
この文章を書いているのも、感情面の私がふんわり「こういうnote、書きたい気がしない?」とささやいたから。そのうえで、あれもこれも書きたいと出てくる感情面の私を、全部書くと一番書きたい話たどり着かないかもよ?と理性面の私が制御する。満足感を得るにはこれも必要だ。
ただ、すべてを感情面の私に決めさせると、私は後から苦しむことになる。片付けも一生やらずにいられるわけではなく、散らかり続ける状況に、感情面の私がだんだん嫌になってくる。そうなれば、散らかり放題で大変になった状況で、どうにかしなければならない。
結局、感情面の私はとてつもなく、今の判断しかしない。未来の感情面の私のことすら考えない。それでいて、理性面の私が将来のことで助言をすれば、今のことかのように丸のまま勘違いしてしまう。
例えば、今のコロナ禍で。一生このまま、前のように過ごせるようにならないのではないか、誰とも会えないのではないか、という悲観的な予測が浮かんだとして。実際にどうなるかわからない未来だという発想はできず、今のことかのように慌ててしまう。そのくせ、未来のことを今どうにかできるわけがないので、ずーーーーーっと辛くなる。
別に理性と感情で対比させたいわけでも、どちらが優れているというわけでもない。上のコロナ禍の例では、感情面も不安で焦ってどうしようもなくなっているが、理性面も先の未来を落ち着いて捉えられているわけではない。結局、理性も感情も同時に混乱してしまう。
ただ、復活するきっかけもどちらが先とも言い切れない。未来のことでとてつもなく不安になっているとき、どこかのタイミングで気づく。
今私は、実際にわかりもしない未来のことを、わかっているかのように不安になっている!! と。
その瞬間は理性のひらめきとも感情のひらめきとも分けきれない。おそらくどちらもあって、すとんと腑に落ちると、不安は和らぐ。今回仮に理性と読んでいる、自分の考えから感情が乱れたとわかれば、少なくとも今の現実から生まれた感情ではないことがわかる。自分で自分を不安にしていた、と気づいて落ち着く。
私は理性面の私が一見理論的にふるまう風で勘違いすることがわかって、生活するのが楽になった。片付けの件にしても、理性面の私が「いつも家はきれいにしているものでは?」と難しい顔をずっとしている感じがして、かえって全く手がつかなかったけど。勘違いがあるとわかってから、なんとなく、「いうほど別に家をきれいにしていなくても大丈夫でしょ」と感情面の私がのびのび反論できるようになった。そうしたら返ってかなり緩い状態だが、前ほどやばくなるのは減った。
それに、感情面の私の、思うほど理性面の私のいうことを聞いてくれないというのもわかって、楽になった。頑張って理性面の私が言い張っても、感情面の私が「やりたくない!!」となったら、そのやりたくないを真っ向から「それでもやらなきゃだめでしょ!!!」とバトルすることに意味がないのがよくわかった。やらないので。
ここまで書いて、つまり私の中にはざっくりと「理性面の私」「感情面の私」がいて、なんとなくさらに2人に挟まれる「私」がいるみたいだな?と思った。「理性面の私」は「私」になぜいう通りにしないのかってかなり詰まってきていたのか。いう通りにできないなんて思ってないから、「私」はひたすら申し訳ないし。でもって「感情面の私」は強烈なエネルギーと共に、あっち!と走って行ってしまうから、「私」は振り回されて引っ張りまわされて…。でも「私」が本当は「感情面の私」をコントロールできなきゃいけないのにって思うし。そしてまた「理性面の私」に責められて…。
そうか、2人に挟まれてたからつらかったのか! そりゃーそう!!
2人にそれぞれまあまあってできるようになって。できないんだからしょうがないね、できる範囲でどうにかしようぜって交渉ができるようになったから、最近楽になったのか。「私」のこと助けてほしいんだ、って「理性面の私」と「感情面の私」に前より言えるようになったんだなぁ…。
まぁ「私」の思い通りになる2人じゃないので、時折振り回されるけど、それすら仕方がないね。気づいたときに助けてと言いなおそう……。
最後の期の段落はまるきり余談だが、これほぼ精神分析のいう「超自我」「エス」「自我」の話なんじゃないかなァ…と思い至って遠い目に。いや、詳しくないので厳密に詰めると違う可能性があるけど。
なんで遠い目になるかって一応精神分析、理論読んだことがあるのに全く思い至ってなかったぜェ、がっつり知ってる知識に接続したじゃんまーじで?? みたいな。気づいてなかったことに複雑な気持ちになった。いやーちょっと勉強しなおしつつ確認したいかなぁこれ……。
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