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いつも「自分」を探している

何をしたいか、どう行動したいか、どう生きたいか。
それを決める確かな「自分」がいるのでは、といつも探している。

たまに聞く「自分探し」と似てるだろうか。
試しに事典で「自分探し」を調べてみると下のように出てきた。

アイデンティティの確立や自己実現のための取り組みを意味する語。「自分らしさとは何か」を追究するための自己分析や、「自分は根本的に何を求めているのか」を追究するための自己啓発、夢を実現するための諸種の取り組みなどを含む概念として用いられる。

実用日本語表現辞典

確かに、当てはまるところがあるかもしれない。私は「自分はどうしたいのか」に関して自己分析をしている。わりといつも。

「何をしたい?」の自分探し

例えば今日は祝日で、何も予定がない日だった。だからやるべきことを書きだして、その上で考えた。私は今日何をしたいだろう?
うっすらと浮かび上がる、やりたいこと。途中になっているゲームの続き、ソシャゲのパーソナルストーリーを読む、エッセイを読む、noteを書く……
明確にこれがやりたい! となることは少ない。ドはまりしてるものがあるときぐらいで、1年に1度あるかどうか。

何をしたいのか、それを決める確かな「自分」は、今日はいないんだな、と気づく。むしろやりたいような気がする…そうでもないような気もする…と、いつもよりあいまいな感じが強い。
多分昨日うっかり夜更かしして、睡眠不足だからだ。つい小説を読んでしまった。面白かったし後悔はしていないが、眠いものは眠い。
では昼寝をしたいかというと、眠いのに眠れないレベル。

さて、そうなるとこのぼんやりした状態で何をするかを決める必要がある。ぼんやりしている、でもいい。ただなんとなくで始めることは避けたい。
流されるようにやり始めると、後々モヤモヤすることをこれまでの経験から知っている。一日の終わりに後悔がやってくる。
最も、流されることが悪いわけではない。流されようと選んでしまえば、モヤモヤしない。

今やることの中身に関して、これでなければならないと決まりがない。
やるべきことをやらないままで後から大変なことになったり、やりたいことをいつまでも手を付けられず、どうしてと苦しくなることはある。
だが、そういう未来のための投資や過去の片付けることは、実際今やることを選ぶ上で、参考にするだけ。今やることを選ぶ上で、影響はするけど、決定権はない。
やるべきことを最初にやると決めた日は、やるだろう。でもやるべきことがあるからって、必ず最初にそれをやることにはならない。

何をするかの決定権は「自分」にある。
それも理性的に判断する自分ではなく、感覚的な自分に。

何が好きで何が望みか。いったい何をしたいのか。
それに答える「自分」が確かに自分の中にいる。
まぁいつも確かなわけではなく、今日みたいにぼやけていることも多いのだけれど。それでも、今日だっているにはいる。
エッセイを試しに読んでなんか集中できないと止め、ソシャゲをしてから、改めてエッセイを読んで楽しい! なんてことをする「自分」が。

感覚的な自分が後回しになる日々

普段働いていると、どうしたって理性的に判断する自分が、「この仕事の締め切りはここまでなんだから優先してやらないといけないよ!」「状況的に30分で今やっていることは終わらせよう!」「関連する本を読まないと仕事で困る!」なんて追い立ててくる。
実際言い分を聞かなければ仕事が立ち行かない。そういうときには、感覚的な自分はほとんど後回しで過ごしている。

ただ忙しくしているときだって「ずーっとは無理だよ!!」と感覚的な自分が叫んでいる。その通り、無理だ。無理だと前よりわかるようになった。
だから忙しくてもできるだけ休み時間は取る。残業はなるべくしない。

忙しい日常で、理性的に判断することは実際必要だ。
でも、感覚的な自分を優先するときがなければ、生きることは辛すぎる。

だから忙しくしなくていいとき。いや忙しいときだって、タイミングがあればできるだけ。今どうしたい? と尋ねる。
今どうしたい? と感覚的な自分に尋ねるとき、必ず明確な答えが返ってくるわけではない。尋ねる「自分」は不確かだ。
「自分」を探している、と表現するのがしっくりくる。

そんなわけで、いつも「自分」、探しています。

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