見出し画像

人とかかわる上での私的必須事項

 ちょっと昨日めちゃくちゃ怒ることが仕事であって、その怒った理由の1つをまとめてみることにした。怒っている内容なので説教くさくなるような気もするが、それは個人的な文章の好みからズレるのでどうにか避けていきたい…。と、宣言しておくと少しマシになるのでは? ならないかな?

 怒った理由は複数あるんだけど、怒った理由を書くnoteではないので、その中で、自分が文章を書く理由にもつながる理由を書こうと思う。
 端的にまとめると、自分の思考を探る取り組みを行っていないだろう職場の人に、私はものすごく怒っている。これは私の信念に基づく怒りだ。

私がnoteを書く理由

 私は前に「書く理由は頭の中の概念を書き出すためだ」と書いた。頭の中であいまいな形にしかなっていない思考を、形作ることがとても楽しい。そうすることで新しくわかることがあるのが、また楽しい。
 ただ、では完全に自分として楽しいだけでやっているのかというと、そうではない。やらねばならぬという思いもある。

 自分の思考を形作るための、研鑽を積まねばならない。
 なぜなら研鑽を積まねば、人に思ったことを伝えられないのだから。

 私は対人援助職をしているので、単なる同僚ではなく、援助する相手として人と関わる機会がある。人と関わることが仕事になっている。ならば、人と関わる上で必要な研鑽を積まなければ、という信念がある。
 援助する相手がよりよく過ごせるようにサポートするためには、ある程度の技術が必要だ。そして、その技術をより使えるためには、技術を使う自分自身を知らねばならない。あらゆるスポーツをする人が繰り返し練習して、自分の手の届く範囲や足の動き方を知り、手足の動かし方を調整するのと同じように。援助する相手と関わるために、言動を仕事上調整して、技術として発揮するのであれば、まず自分自身の思考を知らなければ。

 だから私はnoteを書く。note以外にも、あらゆる思考を文章にしてみようと心がけ、友達ともいろいろ話し、研修に行く。すべては自分自身の思考を知るため。どういう癖があるかを知るため。
 私には「自分の思考を探る取り組みを行っていないだろう人」に対してものすごく怒るという癖がある。これはあくまで私の癖で信念だ。私自身は取り組まない相手に怒りを覚えるが、取り組まない相手が誰にとってもどうしようもない相手かどうかは別の話だ…とはわかっている。私自身が腹立たしくて仕方がないことだけが真実だ。
 これでもし、相手は誰にとってもどうしようもない相手に違いない、と思い始めたら、結局同じ穴のムジナになってしまう。

何に腹が立つか

 「自分の思考を探る取り組みを行っていないだろう人」に腹が立つのは、自分の思考を探っていないがゆえにエラーをしていて、かつエラーに巻き込まれるからだ。エラーは多くの場合現実を誤って捉える形で発生して、その誤認に基づいて理屈をこねることになる。その理屈を聞かされる側として、まったく理屈が通らない、変な理屈を。
 「1+1は当然2じゃなくて3でしょう?」みたいな話が前提無しに始まれば、こちらとしてはいやいや2ですよね!?と言い返すことになる。ただ、相手としては理屈を通そうとするようでいて、実は理屈を問題としているわけではないから、話が通じない。通じるんだとしたら最初からそういう話をしていない。理屈は後付けの説明でしかない。ではもともとに何があるか。

 だいたいは元々には本人の恐れとか不安とか、感情がある。と、私は思う。私が自分を観察した限りにおいては、何かエラーが生じるとき、自分の気持ちを無視していることばかりなので。一応、他人を見てもそうだなぁと思ってはいるんだけど、どこまで事実かは言い切れないので大抵そう、ぐらいにとどめておく。

 結局相手は1+1=3の理屈が大事なのではなくて、気持ち上2ではまずい、3にしなくちゃならない、と切羽詰まっているのが先にある。その切羽詰まる気持ちを、そもそも自覚していない。
 この気持ちを自覚せずに、さも正しい理屈でござい、という論調を繰り出す。これが私はものすごく嫌いだ。これに私は怒っている。

 だって、自分の気持ちという現実をスルーして、幻から主張をしている。本人はそれが幻であると自覚しておらず、結果として幻に対して言いつのろうとしても、本人の切羽詰まっている点はそこではないから意味がない。そのくせ正しいと言われてしまえば、つい無視できない。幻には直接的アプローチをしても意味がないのに、アプローチする羽目になる。徒労だ。
 幻は幻だということを明らかにすることができれば消せる。私としては消して本来のおおもとである、自分の気持ちという現実にアプローチしたい。ただ、そもそも自覚ができないから幻にすがったような状況で、自分自身すら気持ちという現実を見られないからこそ幻にすがっているともいえる。この状況で周りが幻は幻だと明らかにできるかというと、たいていの場合は無理だ。本人が現実を見ようとしない限り、周りの誰も現実を見せることはできない。

 つまり「自分の思考を探る取り組みを行っていないだろう人」に対して周りは手の打ちようがなく、そのくせエラーは出されて巻き込まれるので、実際のところ意味のない対応を迫られる状況になる。
 最近私は、幻に対策するあほらしさに時間を取られるわけにもいかないのと、前より相手の気持ちという現実はこれだな?とつかめるようになった感じがあって、ただ現実は見ようとしていないのだから──といういくつかのことを前提として、相手の気持ちという現実から推測した対策をぶつけるようになってきた。幻を幻とも突きつけないので、またいずれ同じことが繰り返されるのは承知の上、今目の前の問題のみを解消する……。
 1+1=3には同意せず、ただ3だということにしたい相手の気持ちを汲み取って、別のところから3を出現させて「これならいいでしょう?」という感じに近い。我ながら自分でも何をやっているのかわからないが。なにより、なぜ相手の尻を拭いてやらねばならないのだ。自分の尻は自分で拭いてほしい。3にしてほしいということをちゃんと己の口で言えよ。

現実を見ること

 私は人と関わる上で、現実を見ることは避けられない、と思っている。
 自分の気持ちという現実。かつ、相手と自分の気持ちは違うという現実。他にもいろいろ現実はあると思うけど、このnoteで取り上げたいのはこの2つの現実だ。
 自分の気持ちという現実を見れないままでは、上にも書いたように幻に捕まってしまって、人と関わる上でも齟齬が出る。本当はこうしたいという思いがねじ曲がり、相手に伝わってエラーを起こしてしまう。
 また、相手と自分の気持ちは違うという現実も、無視してはいけない。今3じゃなきゃ困るという切羽詰まった感じが相手に会ったとして、私にはピンとこないことも多くある。ただ、現実とはそういうものだ。私は私の現実を生きていて、相手は相手の現実を生きている。

 「現実」というものはさも、誰にとっても共通の1つの確固たるものである、と思われやすい。ただ、実際のところ「現実」を観測できるのが一人一人の人間である以上、観測者である人間の目を抜きにはできない。
 「現実」は複数ある、というのが現実だ。
 このあたりの「現実」を前提にして人と関わることが、相手がよりよく生きるサポートをする上では必要だと思う。だから私としては、自分の思考を探る取り組みをするのが、対人援助職として必須事項だろう、ぐらいに思っている。人と関わることを仕事にするのであれば特に、という思いだ。結局働く上で上司部下同僚などなど、人に関わる場合は多いので、対人援助職に限らず、大抵の人もやったほうがいい気がしちゃうんだけどね。

 そんな感じで私は私の信念に基づいて、仕事をする上で割と必要なことだと思っている、「自分の思考を探る取り組みを行っていないだろう人」にはめちゃくちゃ腹は立つ。ただ、あくまで腹が立つというのは私自身の現実でしかない。誰かの現実にとっては違うこともあるだろう。
 それに、これだけ腹を立てたとしても、私自身が相手と同じように幻を見てしまうことがある。幻を見て苦しみ、人に幻を見たまま関わろうとすることがある。それも現実だ。
 だから、幻を見るなというつもりはない。ただ、自分の思考を探る取り組みをしていくと、幻を見ていると気づけることは増える。だからこそ、取り組んでみればいいのに、と思う。それが簡単なことではないのも、わかっているのだけど。

 たださぁ…人に尻吹かせておいて、本人何もしてないってなると、腹立つものは腹立つんだよねぇ……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?