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2023年下半期の国内文芸を振り返る! 第170回直木賞候補作予想〜!


 ごきげんよう。あわいゆきです。

 来たる12月14日、第170回芥川賞&直木賞の候補作が発表されます。
 半期に一度の候補作発表を人生の楽しみにしながら生きている私にとって、芥川賞と同様、直木賞の候補作発表はお祭りのようなものです。

 今回も今回とて高揚を抑えきれないため、2023年下半期に刊行された国内の小説のなかから、「直木賞未受賞作家の単行本小説」をいくつか紹介していきます!
 とどのつまり、直木賞路線で候補に上がるかもしれない作品を紹介していくかたちです。
 記事の最後には個人的な直木賞の候補作予想も記しています。今期はかなり読めていないのですが、直木賞を心待ちにする一助になればと思います!


 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。

 はじめに下半期の注目作品を振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!


一部作品はネタバレを含むので、未読の方は注意してください。


振り返り

現在の視点から過去を描く

 
 現在から過去を回想するように、あるいは現在と過去をパートで区切って交互に。
 二つの時間を重ね合わせて進行していくのは、小説の王道的な形式です。
 そして、そうした場合に重要となってくるのは、現在(現代)から捉えたとき、過去に積み重ねられてきた歴史はどう映るのか、でしょう。

 たとえば、ナチス占領下のドイツを振り返るかたちで描いていく、逢坂冬馬さんの『歌われなかった海賊へ』(早川書房)は最もたる例です。 焦点が当たるのは、ナチス体制下のドイツで自由を求めて活動していた「エーデルヴァイス海賊団」。 戦争末期の誰しもが「敗戦」を予感している状況下で、自己正当化を図ってしまう人間の心理がナチスによる洗脳教育と絡めて描かれています。
 本作は現代パートの存在によって、2022年まで生きているフランツによって書かれた小説なのだと示唆されています。これによってデビュー作にあったキャラクター的な造形が、むしろ演出として理にかなうようになっていました。 「フランツによる筆記」という体裁が徹底されているがゆえにフランツ周りのエピソードになると過剰な卑下が散見される、などの文体は読んでいて面白いです。
 また、当事者性の欠けている語りの軽視が歴史を埋没させる、という指摘はこの作品が「日本人作者による」「日本人が登場しない(一切言及もされない)」「海外史を的確に伝達している」作品だからこそより説得力を帯びるようにもなっており、よく言われる「日本人作家が書く意味」的な言説へのアンサーにもなっていました。
 直木賞候補にもなったデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』と比べるとエンターテインメントとしては小さくまとまった印象も受けますが、文体との噛み合わせは間違いなくよくなっています。


 そしてナチスドイツと同時期、アジアでも戦火は人々を苦しめていました。
 中脇初枝さんの『伝言』(講談社)は満州国ができる一年前にうまれ、満洲国で育った女性を中心に戦時中〜戦後を描く群像劇です。当時満州国にいた人々(あらゆる国籍含む)が経験したエピソードを通じて、「無自覚な戦争加担」に対する自責が掘り下げられます。
 満州国自体が「なかったことにされた」のとほぼ等しい扱いを受けてきた事実があるため、それに対して出身ルーツを重ねながら、「なかったことにしてしまいたくなる感情」と無自覚な加害を結びつけるのは上手です。各章のゆるやかな結びつきも面白く読めます。
 なかったことにしてはいけないし、周囲の不透明な言説に流されようとせず能動的に知ることは大切——それを事実をともに記録・伝言するためのノンフィクション的性質も強い小説です。

 そして当然、日本国内でも戦争の影は色濃く落ちています。加藤シゲアキさんの『なれのはて』(講談社)では、会社のイベント事業部に勤める二人が一枚の絵に秘められた背景を追っていくうち、石油によって財を成したとある一家の複雑な過去と、秋田で起きた日本最後の空襲「土崎空襲」に触れていきます。
 著作権問題 / 戦争 / 報道の在り方 / 等等、トピックを多く抱えながらも、広義のミステリーとしてエンターテイメントとしての矜持を忘れようとしない姿勢が素晴らしいです。一本道ではない捜査過程や事件における科学考証、主人公の内面的成長や現在過去の行き来まで、徹底的に読者を飽きさせないよう構築されています (特に情報を提示する順序立てとタイミングが絶妙。さりげない伏線は早いうちに回収し、大きな謎を引っ張っていく箇所が目立つ。 登場人物に抱く印象の変化も“どんでん返し”的な唐突さではなく、丁寧な描写によって少しずつ変化させている)。
 秋田の方言をふんだんに用いているにもかかわらず過去パートは読みやすく、リーダビリティも高いです。網羅範囲も20世紀前半の戦前〜戦時中〜戦後と広く、時代性を感じさせるようになっていました。
誰でも楽しめてなおかつ読み応えもある、良質なエンターテイメントです。

 そして、三味線を教える目の見えない女性のもとに女中として働くようになったもう一人の女性が、戦時〜戦後を振り返っていくのは嶋津輝さんの『襷がけの二人』(文藝春秋)。ただし、冒頭で示された「先生と女中」の関係性は、元々「女中と奥様」だったと明かされます。
 そして住み込みで働くようになった女中(元・奥様)の千代は、勤め先であり先生(元・女中)である初衣の目が見えなくなったこと、そして自分の喉が枯れてしまったことを利用して、元々つながりがあったことを相手に隠しているのです。
 つまり、戦争の傷によって主従関係が逆転した——序盤からそれが示唆されており、それによって、関係性の行末が気になるようにできています。そしてその期待に違わず、戦前〜戦時中の荒波を知恵を働かせて生き延びようとする、主従関係に縛られない強固なシスターフッドが描かれていました。「知ろうとすること」の大切さと、表裏一体にもなっている「知ること」によって受けるかもしれない傷、あるいは喉や目に傷を負い、逃れられない過去があるなかでも「現在」を生きようとする強かさ。いずれも丁寧に掘り下げられており、瑕疵らしい瑕疵はありません。
 21世紀を生きる読者にも、しっかり届くように描かれている作品です。

 そして、戦争以外にも積み重ねられた歴史は数多存在します。そのなかでもまだ記憶に新しい東日本大震災を描いたのは、前川ほまれさんの『藍色時刻の君たちは』(東京創元社)。宮城県の港町で「統合失調症の母親」「双極性障害の祖母」「アルコール依存症の母親」のケアを背負わされている高校生男女3人のもとに、襲いかかった東日本大震災。三人は高校時代の記憶と、十年経った現在の感情に向き合っていきます。
 ヤングケアラーと震災を軸にしながら、どちらも丁寧に描写されているのが魅力。 ヤングケアラーについては当事者が置かれている状況を(ヤングケアラーという語への困惑も含めて)わかりやすく描写・説明しながら、ヤングケアラーに対する福祉が充実していない状況も指摘し、「どう他人に頼っていけばいいか」、その方法までを現実の制度に基づいてしっかり描こうとしています。当事者が読むことを明確に意識している手つきは、ヤングアダルトのジャンルと同じ読み応えがありました。
 震災についても、3.11当日〜地震発生〜津波が襲ってくる瞬間までをはっきりと描いており、情景・心理ともに描写も鮮明。主人公の抱えたトラウマが和らいでいく過程も精神医学の観点から丁寧に描かれ、「震災から10年が経った距離感」を描いた作品として優れています。
 ほかにも統合失調症 , 双極性障害 , パニック障害 ,などの精神病自体に誤解がうまれないよう、それぞれ症状の細やかな説明と適切な接し方が提示されており、医療観察法の対象(社会復帰のプロセス)、同性婚にまつわる現行法の現状などなど、トピックが多く含まれているにもかかわらず、メッセージ性が先走っていたり要素の渋滞感は一切感じず、よく整理されていました(それどころか、二段組としてはとても読みやすい)。
 そして震災を描く際にテーマとして語られることの多い〈美談〉的な回収への抵抗と、ヤングケアラーがその境遇を「家族による支え合い」的な文脈に回収されてしまいがちな事実を重ね合わせていくのも掛け合わせが上手くできています。
 物語としても前半部分を「ケアを要する人間がいる状況でどう避難するか」という、このあと予期される展開の顛末を読むための推進力にしながら、後半では主人公らが心の支えにしていた「青葉さん」が抱えていた背景を追っていくミステリ的フィクションの性質も帯び、終盤はしっかりドラマが盛り上がるようにできていました。
 丁寧に忠実に、ヤングケアラーや精神病患者への適切なケア、震災時の描写を施した、広く勧められる作品です。


  ただ、存在する「過去」は戦争や災害のような、日本中を巻き込む大きな規模のものだけではありません。塩田武士さんの『存在のすべてを』(朝日新聞出版)では同時に発生した誘拐事件の背景を30年越しに辿っていくことで、真実に手を伸ばそうとします。
 ひたすら調査を重ねていくジャーナリズム的な筆致が特徴でしょう。そして多角的な視点で事件を深掘りしていきながら、物語を通して見えてくるのは“背負うこと”の重たさです。それは過去であったり罪であったり、あるいは責任であったり。それが正しかったはずだと信じていても、背負ったものをおろすのは難しい。徹底してリアリズムを貫こうとする作風からも、描く/書くことに対する責任の強さを感じさせます。
 また、先述した『なれのはて』と同様、物語にはとある「絵画」とそれを描いた芸術家が絡んでいます。事件当時は評価され難かった写実絵画を描き続けた男の生きざまと、慣習がはびこる旧態依然なアート界隈の細かいエピソードも面白く読ませます。ひとつの「過去」を語り切る大作に仕上がっていました。

 また、見出しの趣旨とはずれますが時代小説として神山藩シリーズ第三弾となる砂原浩太朗さんの『霜月記』(講談社)。 祖父と孫がコンビを組んで、失踪した父を探しながら殺人事件を追っていく、という設定が目を引きます。
 相変わらず所々の表現は洒落ていて、読みやすさも抜群。 クローズアップする関係性をありがちなものから絶妙にずらしていく着眼点もよいです。祖父と孫の視点を入れ替えていく構成を採用することで、祖父と孫のみならず「親→子」「子→親」の関係性をそれぞれ描出、最終的には親子三代を描き切っていました。
 相変わらずチャンバラ人情政治と要素を詰め込んでいるのに綺麗にまとまっている、エンターテイメントとしての完成度も流石です。


現代のテクノロジーから社会を活写する


 一方、現在から過去を顧みるのではなく、現代にあるテクノロジーやガジェットを通じて、現代社会を活写する作品も存在します。

 なかでも呉勝浩さんの『Q』(小学館)は現代社会全体を見通していました。圧倒的な美を兼ね備えたダンサー「Q」を炎上商法的に偶像として押し出していこうとする周囲の人間たちが描かれています。
 新自由主義社会の加速による貧富差の拡大や個々の分断をあらゆる角度から描きつつ、その疲弊によってイデオロギーのような複雑さ・言語化能力を求められない「直観的な美」に身を委ねるようになる過程が描かれていきます。 読んでいくうちに、貧富差や思想にかかわらず万人を陶酔させる「偶像」の樹立が本当に社会を変える可能性もあるのではないか、と実際に思わせる文章の熱量があり、 その裏返しとして、新自由主義の果てに「カルトがしのぎを削る時代」が訪れる、としている将来の予言も面白いです。
 主要人物が最後に選んだ生き方も、現代社会に対するひとつの回答として生き方の道筋を示せています。
 二転三転する展開に終盤の疾走感、スケールのダイナミックさなど、直球のエンターテインメントを貫きながらも、現代社会の未来を予言しようとする趣も強い作品です。

 また、長浦京さんの『アンリアル』(講談社)は、 相手の敵意を察知できる能力を買われて、警察官見習からスパイに転身した若い男の子が主人公。いくつもの事件を連作短編的に描いていきながら決して連作短編ではなく、長編として「ひとつの大きな事件」に迫ろうとしている、起伏のつけかたはエンターテインメントとして優れています。
 主人公の能力と「大きな事件」の概要が遠いところで結びついており、最先端技術を用いた優生思想や生命倫理にテーマを延ばしていくところも、作品としてのまとまりが出ていました。
 続刊を前提とした引きとはなっていますが、よいエンターテイメント小説です。

 そしてSF出身でもある藤井太洋さんの『オーグメンテッド・スカイ』(文藝春秋)でも、最先端の技術が作中で大きく取り扱われます。鹿児島にある高校の生徒たちが、世界で行われるVRコンテンツのプレゼンテーション大会に挑むのです。
「田舎から世界へ」を軸にした王道的な青春小説でありながら、題材は新しめ。 プレゼンテーションの共通テーマが「SDGs」になっているため、SDGsのような規模の大きい目標に対してどのような内容向き合っていくか、が登場人物の悩みになっていきます。
 それに対する回答が「ひとつの大きな解決策を導き出す」ではなく、「それぞれの声に耳を傾けることで、誰でも声を上げていいことを確かめる」だったのは、 現代に描かれる小説としても、チームを組んで世界と戦う青春小説としても、あるいは子どもを主役にした等身大の小説としても、在り方としてとても真摯でしょう。
 また、ブロックチェーン技術を物語の重要な要素として落とし込んでいることにも注目。暗号資産自体が登場することはあっても、NFTやクリプトトークンのような概念をここまで丁寧に説明して、活かしている小説は類例が少ないはずです。 数年後にはそれぐらい普及していてもおかしくない概念なだけあって、リアリティも十分あります。
 そして、こうした現実世界の最前線にある技術がいわば「SF」的な近未来感を与えているので、相対するかたちで鹿児島弁や桜島の噴火、伝統的な男子寮文化のような概念が、より汗臭い青春要素を際立てていました。
 舞台とテーマの掛け合わせがよくできている一作です。

 また、テクノロジーの根幹にあるのは科学的な技術です。その“科学”を題材として取り入れたのが伊与原新さんの『宙わたる教室』(文藝春秋)。 定時制高校に通っている生い立ちも年齢もばらばらな生徒たちが、「科学部」を結成して心を絆していく連作短編集となっています。
 サイエンスの魅力にとりつかれて学校を好きになる、という展開自体はありふれており、そこだけを抜き取ればよくある青春小説のようにも映ります。ただ、定時制に通う生徒たちが仲を深めていくきっかけになる「擬似的な隕石の衝突によってクレーターをつくる」実験と、生徒を見つめる顧問教師が密かに抱く「人間関係の衝突によって化学反応を起こす」実験が重ね合わせても描かれています。つまり一見してオーソドックスでありながら、生徒らが築いていく人間関係を観察対象として構造化するメタ視点を介在させていました。実験をしながら実験されている、という状況を登場人物に与えることで物語は一面的でなく多層的になり、読者側も作者の壮大な実験を目の当たりにしている心地で、見守りながら読み進められるのです。
 また、 舞台となる定時制高校の描写も詳らかで、内部の軋轢や内外を断絶する偏見をしっかり描きながら丁寧に解していくので、風通しが良くなっています。根幹をなすメッセージにも説得力が出るよう仕掛けも施されており、印象に反して一筋縄ではいかない短編集となっています。

 そして、スマホが普及した現代の生々しい部分を活写しようとするのが武田綾乃さんの『可哀想な蝿』(新潮社)。〈無意識的に湧く、他者に優劣をつける本能的感情〉を軸にした短編集となっていました。他者への優劣意識が庇護欲や憐憫につながり、タイトルにもある「可哀想」に至るまでを描いていきます。
 特に書き下ろしとなっている「呪縛」が秀逸。「いい子」であろうとする理性が本能的行為によって排除されてしまったときに起こりうる暴走を丁寧に描かれており、「悪い子」でいることへの快楽をおぼえるさまは、先の展開が容易に読めても損なわれない面白さがありました。

幻想入り混じる世界を描くには

 科学によって裏付けされたテクノロジーから離れて、現実のなかに幻想を混ぜる——あるいは幻想を礎にした世界を描く作品も、振り返っていきます。

 今年はジャンル問わず幻想小説に良作が多かった気もしますが、なかでも抜きん出ていたのは川野芽生さんの『奇病庭園』(文藝春秋)。かつて失ったもの(角や翼など)を再び獲得する、とある奇病が流行するようになった「庭」が舞台。 差別や偏見に晒されたものたちが集う「水滸伝」的な群像劇を、神話的語りによってひとつの壮大な物語にまとめあげていきます。
 山尾悠子さんや大濱普美子さんに連なる、硬質な文体かつ純度の高い(イマジネーションの連鎖によって物語を進行させる)幻想小説の系譜を引き継ぎながらも、非常に読みやすいのはなによりの特徴。 そして「奇病(とされるもの)に冒された人間」を美しく描写しながら、「そうでない人間」を登場させることで、現代にも続くあらゆる差別や偏見に対する提起にもなっていました。
 その際、「大昔に奇病によって翼や角などを一度失っている」という設定が物語に奥行きを与えています。かつて「皆が有していたもの」だったにもかかわらず、それを失い、再び獲得すると今度は「異常」として差別や偏見に晒されるようになるねじれを指摘しているのです。このねじれによって差別や偏見に至る理由が「いまを生きるもの」の主観によって乱暴に決められている事実を証明していて、いかに差別が人為的に発生するものか / 人間が自分の見えている世界でしか物事を判断できないかが、より強調されていました。
 また、人間が主観でしか物事を判断できない事実は、他人の良し悪しを外側だけで一方的にジャッジすることの暴力性、あるいは他者との正確なコミュニケーションの困難も意味するでしょう。 作中では「誰にも自分の狂気しかわからない。自分の正気もまた。自分にしか知り得ない」と語られ、ヒーローがヒロインを「救う」ことで男性性を誇示するマッチョかつ女性の心情を無視した「物語」の否定も行われます。
 こうした状況が丹念に描かれるからこそ、異なる姿になったものたちがどう共存を取り戻していくか、群像劇として追っていく流れは先が読めずに面白くなっています。
 また、現実に存在しているものを〈自らの想像できる範疇を超えている〉という理由で「幻想」(狂気)と一方的に解釈してしまうことの恐ろしさについても語られており、 現実/幻想(これは正気/狂気でもある)の安易な分断を否定する、「幻想」の定義を再解釈する(現実と幻想は地続き的な関係にあると提示する)物語としてもよくできています。

 そしてもうひとつ、注目作が小田雅久仁さんの『禍』(新潮社)。 「身体性からの解放」を軸にホラーとして描いた短編集ですが、作者特有の凝った文体がぎっしりと詰め込まれているので、読み進めながら本能的な嫌悪感をより与えるようになっていました。
 収録されている短編はほとんどにおいて、身体に“ある変化”が訪れることで本能的欲求のリミッターが外れていきます。 つまり身体の殻を破ることで精神が露わになり、そのことによって生理的な恐怖と結びつくようになっているのです。
 そして、本作の場合は身体性の解放に留まりません。そこからさらにスケールが壮大になり、最終的には身体性ならぬ“神”体性として、身体に神が宿る展開へと接続されていきます。
 身近な肉体に着目しながら、執拗な筆致によってダイナミックなスケールへと膨らませていくエンターテインメントホラーの佳品。小田さんにしか書けないホラーとなっています。


 また、“神”が宿るといえば、歴史ある神社が多く存在している京都はその舞台として多く扱われています。万城目学さんの『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)でも収録されている中編二本、その両方で「京都の歴史」を感じさせる、とある幻想的な仕掛けが施されていました。
 それと同時に、京都の特色でもある「寒暖差の激しさ」がよく伝わるようになっているのも京都愛を感じさせます。京都を味わいながら登場人物の不思議な青春を楽しめる一冊です。

 そして原田マハさんの『黒い絵』(講談社)は原田さんらしくほとんどの収録作でアートを題材にしながらも、ほろ苦い読後感の作品ばかりとなっていました。ホラーテイストからオカルティックなものまで幅広く、これまでの印象とは異なる原田マハ作品を味わえます。
 また、アートに対する造詣の深さも折り紙付き。たとえば収録作のうちの一編となる「キアーラ」では、修復家という珍しい職業に焦点があてられ、〈崩壊〉が仕事に結びつく職の抱えるある種の背徳や、「修復家は画家ではない」という切り口から掘り下げがされていきます。
 アートカルチャーを隅々まで楽しみながら、ゾッとした心地を味わえるはずです。


予想

展望

 下世話ではありますが、直木賞候補に何が入るのかの予想も立てていこうと思います。
 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。


 まず、直木賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、例によって文藝春秋さんから刊行されている作品の検討。

 今回は混戦気味ですが、そのなかでも伊予原新さん『宙わたる教室』は候補入りの可能性が高いように感じます。『八月の銀の雪』で直木賞候補になってから前作『オオルリ流星群』を挟んでの刊行となる今回。前作よりも構成がよく練られており、完成度も高くなっている印象を受けます。
 また、嶋津輝さん『襷がけの二人』も、経歴的には新人ではあるものの端正な文章と魅力的な人物造形が目を惹きます。テーマの掘り下げもうまく、完成度はまったく引けをとりません。足りていないとするならばネームバリューと元々の注目度ぐらいなので、文藝春秋から二作目があるならこの作品ではないかと思います。
 川野芽生さん『奇病庭園』は、元々の掲載媒体が「文學界」であることなどから鑑みて、直木賞では選ばれない可能性が高いです。

 また、ここ10年は必ずといっていいほど時代・歴史小説が一作は候補に入る直木賞。強いて例外を挙げるとするならば、川越宗一さんが『熱源』で受賞した回でしょう(とはいえ、『熱源』は明治時代を舞台に据えたものです)。
 ただ、それを踏まえると予想が難しくなってくる今回。ネームバリューのある注目作が時代・歴史小説に偏っていた上半期と比べると、間違いなく入るだろうと推察できる作品は見当たりません。
 それでも一作選ぶとするならば、今後を担っていく存在として多くの期待を寄せられている砂原浩太朗さん『霜月記』ではないでしょうか。すでに直木賞を獲っているような貫禄すら醸し出している方ですが、『黛家の兄弟』『藩邸左配役日日控』は有力視されながらも候補入りならず。その二作と比較して特別抜きん出ているわけでもないため(完成度自体は高い)、確固たる自信は抱けませんが、時代・歴史小説から選ぶならここのような気がします。
 逆に、今回私の予想から大きく外れている作品が候補入りするなら、歴史・時代小説になるのではないかなとも思っています。


 そして文藝春秋ではない版元からの最有力は加藤シゲアキさんの『なれのはて』でしょう。著者の来歴を押し出されたPRがなされるかもしれませんが、そんなことせずともエンターテインメントとして下半期屈指の出来栄えです。受賞最有力、といっていいほどだと思います。

 もう一作は非常に悩むところですが、今回は小田雅久仁さん『禍』で予想しておきます。決して多作ではない方なので、次の刊行がいつになるか未知数。吉川新人賞や本屋大賞、日本SF大賞で注目を集めた勢いにうまく乗ってほしいです。前回の直木賞でホラー(怪奇)小説が複数入っていたのも追い風でしょう。

 というわけで、今回の予想はこの五作品です!ででん!

第170回直木賞 候補作予想

伊予原 新『宙わたる教室』(文藝春秋)
小田 雅久仁『禍』(新潮社)
加藤 シゲアキ『なれのはて』(講談社)
嶋津 輝『襷がけの二人』(文藝春秋)
砂原 浩太朗『霜月記』(講談社)
(五十音順・敬称略)

 最後まで悩んだのは、呉勝浩さん『Q』と塩田武士さん『存在のすべてを』、逢坂冬馬さん『歌われなかった海賊へ』の三作。いずれも候補入りしたとしてなんら驚きません。


 また、今回は発表までに読めなかった作品も多かったので、紹介していない(私が読めていない)作品から、注目作のリストも掲載しておきます。

〈list〉
額賀澪『青春をクビになって』(文藝春秋)
瀬尾まいこ『私たちの世代は』(文藝春秋)
三本雅彦『運び屋円十郎』(文藝春秋)
河﨑秋子『ともぐい』(新潮社)
寺地はるな『わたしたちに翼はいらない』(新潮社)
呉勝浩『素敵な圧迫』(KADOKAWA)
月村了衛『半暮刻』(双葉社)
岩井圭也『楽園の犬』(角川春樹事務所)
一穂ミチ『ツミデミック』(光文社)
古内一絵『百年の子』(小学館)


 ともあれ、あとは直木賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。

 それでは、ごきげんよう。

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