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「ゴミ箱人間」

 誰しも自分が可愛いこの世界で、人を頼ることが罪な気がして、黒川誠はいつも一人になると涙を流していた。

過去に背負い込んできた致死量の悲しみが、日を追うにつれて積み重なり、ほんの些細な一言や、他人の行動一つで、涙となって溢れ出てくるのであった。

だが、誠は決して人前で泣くことはなかった。

彼が大好きだった祖父の葬儀でも、周りがわんわんと人目をはばからずに涙を流す中、必死に泣くまいと太ももにアザができるほど強くつねって涙を堪えたほどである。

別に、誠は人前で泣ける人間を蔑んでいるわけでも、格好悪いと思っているわけでもなく、むしろ人前で泣ける人間を心底羨んでいた。

悲しい時に、ある時は友達の前で、ある時は家族の前で、そして、ある時は恋人の前で…そうやって悲しみを涙で表現できる人々に一種の妬みのような感情を抱いていた。

悩みを赤裸々に打ち明ければ慰められて元気になる、そんな単純な方程式ですら誠は導き出せずにいた。

まるで、「1+1がどうして2になるの?」といつまでも深く考え込んでしまい、疑ってしまう少年のように。


 悩みをすぐに吐露できる人種は、自らの負の感情を他人というゴミ箱に捨てる。

そうしてゴミをまき散らした後は、清々しい表情で人生の駒を進めていくが、受け取ったゴミ箱同然の人間は、その厄介なゴミをまた他人へと転嫁するか、あるいは、呑み込んで消化されぬまま、心のストレージへと蓄積させていく。

誠は、幸か不幸か、"良い人”であった。

いつも駅から家までの道のりで路上に捨てられた空き缶や汚れたプラスチックの袋を、見過ごせずに全て拾っては家に持ち帰り、ゴミ箱へ捨てるのであった。

世の中には、ゴミをポイ捨てする人がいるように、ゴミを拾う人もいる。

誠は、後者だった。

そして、同じように人間が吐き出した悩みというゴミも、誠は眉一つ動かさず、親身になって呑み込んであげるのであった。

この世界で生きていくだけで、手のひらから溢れ出るほどの感情が心を摩耗させていくのに、大勢の人からなすりつけられた負の感情が心を殺すのは、時間の問題である。

23年生きてきた誠ですら、すでに心はカサブタを生成する間もなく、傷の上に傷を重ね、もし心に色があるならば、きっと赤黒く固まった血の上を鮮血が飛び出ているような、見るに耐えない有様であると容易に想像がついた。

だが、悲しいかな、心は誰の目にも映らない。

誠の白い肌、すらっと伸びた背丈に、たくましい骨格とうっすら浮き出た血管、子供のような無垢な笑顔と洗練された佇まい…外から見えるその全ての面が、内側で醜く膿んだ心を見事なまでに覆い隠していた。

あまりに透明で、悩み知らずな誠の振る舞いに、多くの人間が集まり、悩みという色のない刃を丁寧に突き刺しては、満足げに帰っていった。

誰も誠の心の傷に気づく人はいないどころか、傷をさらに傷付け、なんら悪びれず感謝して去っていくのである。

誠は、容姿も悪くない上に、生まれもった身体的な障害もない。

だが、明らかに心は深刻な状態に陥っている。

鬱、双極性障害、境界性人格障害…誠こそ、心に溜まったゴミを他人に拾ってもらう必要がある人間だと、彼自身自覚はあるのだが、残念なことに、誠は"良い人”であった。

吐き出したゴミは、他人に悪影響を及ぼし苦しめる、それを知っていて、どうして人にゴミを渡そうと思うだろうか。

相手が死ぬことをわかって、故意に何度も包丁を胸に突き刺す殺人犯のように彼はなれなかった。



 心は誰に見せればいいのだろう。

誠の最大の課題であり、永遠に解くことのできない問いであった。

信頼している大切な家族?親友?それとも、恋人?

多くの人は、そういった親密度の高い人間にゴミを投げ、そして、相手からも喜んでゴミを受け取り、双方でゴミ箱を共有し合うそうだ。

だが、誠は相手からいくらゴミを貰っても、相手がどれだけ愛してくれていようとも、決してゴミを渡すことはなかった。

むしろ、大切に想う人こそ、穢したくなかった。

その代償に、彼はいつも心を見せられずに、一人部屋で、夜道で、泣いていた。



 誠は、孤独な幼少期を過ごした。

一番最初の記憶は、恐ろしい顔で怒鳴りつける父親と、慟哭しながら食器棚にある皿を片っ端から父親に投げつける母親、一枚、また一枚と皿が割れる鋭い音…そして、二人を止めようとするも、言葉をまだ知らず、大声で泣き叫ぶ自分の声。

ガラスの破片で埋め尽くされた床と、今にも殴りかかろうとする父親から逃げるように部屋を出ていく母を必死に追いかけ、狭い軽自動車の中で訳もわからず二人で泣きながら、涙で滲む深夜の道路をどこまでも進んでいった…。

次の記憶も似たような光景だった。

一階のリビングに響く父親の怒号と母の泣き叫ぶ声を、2階の部屋の床に右耳をあてながら、恐怖で泣くことしかできず怯えている自分の姿。

耐えきれなくなり、駆け足で一階に降りて、

「もうやめてよ!!」

と震えながら叫んだ。

自分が存在しなければ二人は争わずに済むのかな…毎日繰り返される大好きな両親の喧嘩で、誠は幼い頃から自責思考となり、自分が死ねば全て解決するという思考が確立された。

両親が争わないためにはどうすればいいか、二人は今何を考えているのか、会話を上手く中和して二人の機嫌を損ねないようにするにはどうすればいいか。

誠は、言葉を覚える前から実家を出ていく19歳までの間、毎日頭から火が出るほど考えながら暮らした。

常に相手の立場で物事を考え、相手が求めている言葉や振る舞いを予想して先に行動する。

そんな誠は、当然のように同級生よりも遥かに大人びていた。

そして、みんなのわがままも、お願い事も、嫌な顔一つせず自ら進んでこなした。

誰もやりたがらないこと、例えばトイレ掃除やクラスの学級委員、文化祭の人気がない役職など、どれも笑顔で率先してこなした。

すると、皆が口を揃えてこう言い始めた。

「誠は本当に優しいね。」

「誠みたいに良い人はいないよ。」

「誠くんは本当育ちがいいのね。」

優しい、と人から言われる度、誠は傷ついた。

(違う。優しいじゃなくて、お前にとってただ都合が良いだけだ。)

と、内心沸々としながら、自分の性格を恨んだ。

(本当は優しい人になんて、なりたくない。
でも、両親が何を考えているのか呆れるくらい想像してきたせいで、相手が求める言動に気づいてしまう。
気づいてしまうから、見逃すのはもっと心苦しい。
だから、気づかないふりをするよりも、相手に施す方を優先してしまうのだ。)

誠は、不幸なことに、"良い人”であった。

こうした葛藤をいつも抱えて生きてきた。

身体に染み込んだ癖を治すことはできなかった。

だから、誠は、優しい人、すなわち、ゴミ箱人間になったのであった。



                    -------------「ゴミ箱人間」安斉弘毅




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