そのままで

noteを書く時、というのは、自分の中に積もってきた想いに区切りを付けたい、という事が多い気がする。
積もり積もった気持ちを文にして、書いて読んで消化する。消火かもしれない。
後で読み返した自分の何かに繋がれば良い。

隣の芝生は青いとは、巧く表現したもので、自分にはない他人を見て、人は羨ましくなるように出来ているらしい。
それによって自分を鼓舞したり、頑張る力になる時もあるだろうけど、
いつもそんなに強い気持ちを持っているのかは疑問ではある。

今の私は、単純に隣の芝生があおーく見えるのである。

突然だが、私はくるりというバンドが大好きだ。
98年だったか、99年だったか、東京 と言う
同じ題名の曲が数多とある一曲を聞いた時に、得も言われぬ感覚にとらわれた。
何コレ。が第一声だったかもしれない。
当時から文章を読むことが好きだった私は岸田さんの書く歌詞に惹かれ続けた。音のことは良くわからない。 
でもくるりの歌はどこで聞いても分かる。
そしていつでも揺さぶられる。
心の奥底にある感情を引っ張りだされるような、
ただそこにある物の見方がぐるっと変わってしまうような、そんな感じがする。
言葉の選び方と並べ方と表現力。

だからずっと特別に大好きだ。

もちろん他にも色んな音楽を聞くし、好きなバンドだってグループだっている。

最初からいつまでも特別というだけ。

でも、私の狭い世界の中には、くるりを好きな人というか、知っている人にさえなかなか会えず、
教えてくれた人と、10年前くらいに会った人だけ。
それでもずっと好きなまま今に至る。

会ったり実際に見たことは一度もない。
私にとってくるりは、存在するけれど、どこか異世界の人たちで、このスマホやタブレットやPCやCDの奥にはいるけれど、同じ世界には住んでいない、そんな気がする人たちなのだ。
知った当時はSNSはおろか、インターネットがやっとだった時代で、ただひたすらCDを聞いていた。
その頃に比べれば音も映像も触れるチャンスはぐっと増えたけれども、それでもまだまだ遠い存在。
異世界には変わりない。

しかし、しっかし。
それは他の方にとっては、どうも違うようで、

私が毎日入り浸っているSNSでは、くるりに実際に会える人がいる、ようだ。
くるりに関する情報が沢山あるだけで嬉しいのに、実際に会えるだと?
実際にあの人たちの歌が自分の耳で聴けるのか?

羨ましい。実に羨ましい。


私は今生きている中で、幸せを感じる事が多い。
そうなる為の努力は、沢山しているし、ただ単に楽しさを追求しているからというのもある。
つかず離れずの家族とふわっふわの猫たち。
忙しながらもやり甲斐のある仕事と大好きな本や音楽。
好きなものを好きと言えて取り入れられる環境。

それでも、と思ってしまう事がある。
もう少し時間があったら、
もう少し違う場所に住んでいたら、
もう少し違う仕事をしていたら、

挙げればキリがないのに、そして現実は変えられないし、変えるつもりもないのに、何故欲を出してしまうんだろう。

くるりを実際に見たい。
見れる人が羨ましい。

ライブに行ったら良いじゃん。と。

そんな簡単な状況ではないのです。
自分の人生の自分の生活なのに、自分で決めれないこともある。

今願うのは、私がくるりを見に行ける日がくるまで、くるりはくるりでいて下さい、という事だけ。

離れた場所から、あの人たちのつくる音楽を聞いて、異世界のくるりをいつまでも好きでいる。
いつかもしも実際に見れる機会があれば、それはとても幸せに違いない。

書いたって、区切りは付かない気しかしないけれど、今の私にできる位置から、くるりを好きなままでいよう。
羨ましいことは羨ましいままで。
そして隣の芝生は青いままで。

自分がやらなければいけないこと、やるべきことをする。
さぁ、今日もがんばろ。

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