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リテイクシックスティーン

『やっと終わると思うと今までのことが駆け巡ってきて寒気がする。あと少しでもう殴られることも恫喝されることもない、穏やかで丁寧な部屋を、生活を、人生を、邪魔されることなく作るのだ。
これから拓けていく新しい環境の中で、何も無かったように振る舞えるだろうか。全部忘れて、ちゃんと笑っていられるかな、取り返しのつかない、いくつもの間違いや欠落を、ちゃんと埋めていけるかな。』

と息巻いていたのはたった3年前、地獄は何も変わっていなかった、この家も、私も。


物心ついた時から、1番以外は最下位と同じ、満点以外は0点と同じ、と教えられてきた。99個の丸には見向きもせず、たったひとつのバツ印を酷く詰る母親だった。小学生の頃、「早くママに見せたい!!たくさん頑張ったから、絶対褒めてくれる!!」と言っていた友達の笑顔とバツだらけの解答用紙が、死ぬほど憎らしかったことを覚えている。
テストが満点じゃなかった、靴に泥が跳ねていた、洗面台に髪が落ちていた、友達と話していて帰りが10分遅かった、ランドセルを寝せて置いた、返事をするタイミングが遅かった、などの理由で物置に閉じ込められたり、近場に置いてある物や太い木の棒でめちゃくちゃに殴られることもザラだった。そんな理由でも、理由がある時はまだ良い。存在が気持ち悪いから、などというときもあったので、もうどうしようもない。服で隠れるところばかりだったから本当にタチが悪いなと思う。プールの授業で先生が声をかけてくれた時は、教えられた通り、転んだ、習い事で失敗した、などと答えた。

きっと普通の家庭で育った人からしてみれば、この時点で先生に相談したり警察に逃げ込めば良かったのに。と思うだろうけど、先生に言うなと言われたから言わない。となるのが私達で、お前の為だ、他所も同じだ、と言われれば私が悪いんだこれが正常なのだと思う。だから、「わるいひとをつかまえるけいさつにいく」なんて思考になり得るわけがない。そうやって構築されてきた考え方はそう簡単には抜けなくて、この家が異常だと気づいた時は、もう同情されるような歳でもなかった。

中学時代は地元がめちゃくちゃ荒れてたから、交尾むようになってから普通に喧嘩とか強くなったのに、親を前にすると固まってしまった。殴り返せば絶対に勝てるのに、一度も反抗できなかった。
毎日が恐怖でしかない幼少期を過ごしていると、歪な方向に楽観主義的な思考になる。離婚云々で揉め始めていて、大学の金は出さないだとかになっていたので、夜中に締め出されてる間にレイプされたことも、寧ろこれで気兼ねなく荒稼ぎでもして家出る金貯めるか〜などと思っていたし、殴られても自分が身体から抜けているような感覚になっていた。良いのか悪いのかそういう風にポジティブに考えるようになって、だんだん痛みに鈍感になれたし、殴られている自分をもう一人の自分が大変そうだなあ、と思いながら見ているような感覚があった。記憶を飛ばすこともよくあって、気づいたら外に居たり、何も知らない間にカレンダーの日付が3日も過ぎていたりした。そしてこれが解離や離人であって、どうしようもない自己防衛の手段だったのだと知る頃には、やはり同情すら買えない歳になっていた。

転機が訪れたのは、高校に上がる少し前、篠突くように氷雨が降っていた夜だった。いつものようにボコボコにされて締め出された。何かの糸が切れ限界だと気づき、大雨の中を裸足のまま歩いて、中学校まで行った。職員玄関は中から鍵がかかっていたので、職員室の窓を叩いた。数人の先生が残っていた。私はどこにも言わないでくれ、でも助けてくれと厄介なことを言い、先生は児童相談所に電話すると譲らず、そのあたりから意識がないが、目が覚めたとき、家庭科を持ってくれていた先生がそばに居てくれていた。
そして母親は、私が思っていたよりも世間体を気にする人で、何より、人間だった。その一件があり、ちょっとした騒ぎになって以来、手をあげる頻度が減った。代わりに私にかかる何もかもを徹底的に放棄し、暴言の質を上げた。

そして、何も知らない人たちしかいない高校生活が始まった。毎日バカみたいに笑ってばかりいた。でも決して演じていたわけではく、皆んな本当に楽しい子たちばかりだったし、毎日殴られることも、これで今すぐ死んでくれと包丁を投げられることも、洗濯してやると浴槽に頭からつけられて意識が朦朧とすることも、そのあと全身濡れたそのまま真冬に一日中放置されることも、そういう、生命の危機的なことが少なくなったので、気は本当に楽だった。でも、発作が出て30分電車に乗り続けられないから、すごく早い電車に乗って登校していたことも、理系だるいからサボるとイキったふりして保健室に向かう途中で息ができなくなっていたことも、カラオケに行きすぎて声が潰れて出なくなったとスマホに打ち込んだ画面を見せて笑わせていたとき本当は失声症になっていたことも、きっと誰も知らない。


母親の口からは、私の名前よりも、死ね、産まなきゃ良かった、消えろ、ブス、障害者、気持ち悪い、目障り、とその類の言葉を聞いた回数の方が圧倒的に多い。最後に名前を呼んでもらったのはいつだっただろう。


ここまで書いて、だらしなくコンクリートに張り付いた桜の花びらを、踵の擦れたスニーカーで躙った。煙草の火を消す感覚に似ていた。私の好きな人は、靴底が擦り減ってボロボロになるまで走り続けていたのに、私は、引き摺ってなんとか歩くのがやっとだったんだ。
足を退けると桜なんてなくて、ただ静かに夏が閉じただけだった。

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