[小説] 「退屈の箱庭」箔塔落
※本作は、灰谷魚さんの「レモネードに彗星」へのオマージュ作品となります。掲載を快諾してくださった灰谷さんに篤く御礼申し上げます。ありがとうございました。
叔母が蛹になった。朱い色をした蛹の背中には数時間後には小さなひびができていた。そのひびはやがてめきめきと破れ、ほどなく、ぴょこん、と中から叔母が飛び出してきた。イチゴヤドクガエルの姿をした叔母である。
――これは違くない?
とはいえ、美しい姿ではあるのだが。
――そうは言ってもねえ。
叔母は片一方の前脚で、突き出た口元をひょいひょいともてあそぶ。それから、めいっぱい背筋を斜めに伸ばして長いかぎしっぽをふりふりと振って見せる。もちろんこれは猫の仕種である。猫の仕種をする以上、いまの叔母は猫である。
――くじ運が悪いのよ。いわば。私はあなたみたいにちゃんと考えて転生していないから。
ふくらんだスカートのすそをぱんぱんと払いながら叔母は言う。あるいは言った。「言う」。「言った」。この箱庭においてはそれはまったくの同義である。時間という蠟燭はあっという間に溶け、その蠟燭を囲むわたしたちのすがたかたちもあっというまに溶けてしまう。たとえば、叔母が開いた日傘は、開いたそばから風にさらわれていった。叔母の姿が人間からウミウシに変わって日傘を持つ、たとえば手と呼ばれる器官がなくなったからだ。箱庭の緑も、浅瀬のエメラルドグリーンにいつのまにか変わっている。
――そうだよね。
あたたかい水に膝までつかりながら、私は叔母の肩に自分の肩をちょっと預ける。それから、その肩をゆっくりとこすりつけるように動かす。私は今とても淫靡に安らいでいて、そんな気持ちを行動で示したいと思っている。叔母もそうだ、なんて、私が断言できるのは、私たちが飽きるほどにおなじことをくりかえしてきたから。
ほんとうのところ、うんざりして、そういうことをやめてしまった時期もあった。バベルの図書館の蔵書のすべてを30回くらい読破したころだったか。そのとき、無限は一見限りなく有限に近づくかに思われたが、結論から言うのなら、それがもたらしたものといったら、せいぜい「言う」が「言うだろう」に変わるくらいのごくごくわずかなずれだけだった。だから――というほど「事」は単純ではない。けれども、「次第」だけを見れば、その接続詞以上にふさわしいものがないくらいに明快である。何も終わりにはならなかった。中断の時期があるだけだし、それすら誤差の範囲にすぎない。
ほんとうを言うのなら? 私は叔母に「飽きている」。そのいっぽうで、叔母を見ているといつもみずみずしい発見があり、「ちっとも飽きることがない」。この両義性は、叔母のもたらすものであるのと同時に、私の内心がもたらすものだ。私たちの関係性がもたらすものでもあるのかもしれない。そもそも、時間の流れは寄り添うもの同士の差異を削り取っていくものだから、私/叔母、その区分ですらも、いつまで意味があるのかは正直わからない。あるいは、もうないのかも? もはやそのことを「あやうい」とも私は思わない。
さて、性的な接触を終えた私が産卵をしていると、ふいに私に死が訪れた。死と言ってもそれはエンドマークではなく、ただの身体活動の小休止である。
――あなたはほんとにせっかちだね。
そうか? 今回はだいぶしぶとく生きたつもりだったけれども。
叔母が私の体をていねいに埋葬するのを見おろしながら、私は考えをめぐらせる。次回の自身の転生について。ああでもない、こうでもない、ああ、そういえば最近鳥になっていない、こっそり樹上で孵って、叔母の頭の上に糞を落としてやろう。そんなお遊びがもはや何の意味ももたない冗長な退屈を私たちは生きているけれども、頭の上に糞を落とすというのが本来不興を売るような行為であることを叔母が覚えていたならば、それを叔母はきちんと買ってくれるはずだ。そう思って私は早速計画を立てはじめる。叔母は、というと、さっきまで桜の花になっていたのだろう、花筏の一部となって水路を流れているところである。
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