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「ごちゃまぜラーニング」をめぐって

こんな記事を読んだ。「ごちゃまぜのラーニングセンター」はいいよね。混沌は制御できないように見えるけど、じつは偶然で自由な出会いのなかから、統一的なある傾向が生じてくる。偶発性というやつだ。

ぼくが学んだ西ヶ原キャンパスには、いろんな国の言葉を学ぶ学生がいて、話を聞いているうちに、自然に言語への関心が高まってくる。ただし、当時は専攻言語が決まっていて、途中から変更できなかった。面白そうだなと思っても、自分がやるべき言語はすでに決まっていて変更不可能だった。

日本の大学の息苦しさはそこにある。ひとたび学部を選ぶと変更が難しい。なんらかの試験を受け直さなければ、学部を変えることができない。もちろん、平然と試験をパスして学部の壁を越えちゃうヤツもいるけど、ふつうはそうはゆかない。

その点ヨーロッパは違う。このところ制度が変わって、よくわからないところもあるけれど、基本的には高校卒業資格試験(maturità)に合格していれば、大学に入学するのはほぼフリーパスのはず。学部を変わるのも難しくはない。難しいのはひとつひとつの講義の試験にパスすること。

日本だと試験はアリバイみたいなもの。ところてん式に卒業生を送り出すことで成り立っているのが大学経営。そう、経営なんだよね。あるいは工場みたいなもの。歩留まりはできるだけ高く(出荷できるものが多い状態)保っておきたいわけだ。

歩留まりを考えると、「ごちゃ混ぜ」とか「偶発性」みたいなものは困る。レベルを揃え、できるだけ落ちこぼれを出さずにすべてのチェックポイントを通過し、みんなで一斉に製品となって出荷されていってほしい。

こういうのをパゾリーニは「オモロガツィオーネ」(omologazione)と呼んだんだよね。本来は工業製品の「認証」のことだけど、ごちゃまぜでいろいろあったものを、均質化してゆくこと。パゾリーニ的には、いろんな生の形があったものが、みんな同じように消費社会の消費者となり(プチブル化)してゆくこと。つまり「オモロゴ omologo 」とは「同じ omo-」と「ことば logos」で語り語られるようなものになってゆくわけだ。

だから学校の教師の多くは、工場の管理者みたいになってしまう。均質の素材(学生)を均質の加工過程(授業)に突っ込んで、次々と必要な処置を施してゆけば、自動的に製品(卒業生)が生まれてくる、そんな工場の管理者なのだ。

だから教師が一番嫌うものが「ごちゃまぜ」とか「能力の格差」(dislivello)。こういうものは管理が難しいからね。イタリア語の教室でも「能力の格差」(dislivello) はしばしば問題になる。カリキュラムを時間内にこなすことができなくなるからだ。

けれども、能力の格差こそは、外国語を学習するときの大前提でもある。みんなうまく話せないのだけど、話せないレベルが違うだけ。起こっているのは2つ。ひとつは同じレベルが集まること。もうひとつはレベルの高いものが低いものを助けること。

このふたつの原則にしたがって、言語レベルがひとつにまとまってゆく。持続的で小さな集団だと比較的うまくゆく。大きな集団になると時間がかかる。それでも、全体としてひとつの言語レベルに向かってゆく。

言語学習の出発点には「能力の格差」がある。その格差が孕んでいるカオスこそが偶発的な創造性の苗床なのだ。