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悪魔の誘惑と人生の自転車

こんな言葉を読んだ。有馬稲子の言葉だという。

「彼は、私が最初の結婚の相談をしたとき、反対しています。たとえ彼の思惑は何であれ、“それはよかった。幸せになってくれ”という男気がなぜ彼にはなかったのでしょう。それは道ならぬ恋をしている大人の、最低限の誠意だと思うのです。又次の回の、実際に結婚が決まった時も、“3月に1度でいいから会ってくれ”と、とんでもないことを言っています。これだけは口にするべきではないでしょう。このひどさは今思い出してもカッとなるほど腹立たしいものです。恋をするなら男には覚悟が必要だと思います。その覚悟もなく結婚するという言葉で私を釣っていた、その勝手さが今もって許せないのです」(引用元

 「彼」とは市川崑のことらしい。いやはや。でもぼくには娘がいる。もしも自分が有馬の父ならどうかと考える。この監督には好きな作品もある。けれどもきっと金輪際見てやらない、そう思うのだろう。あるいはもし、ぼくが市川その人だったらどうだろう。なにしろ教師をしているので、ハラスメントの起こりやすい現場にいるのだ。そこでもし、有馬のような魅力的な存在と関係を持ち、しかも「会ってくれ」と言えば会ってくれることがわかっているならどうか。まだまだ精力がみなぎり、成功の頂点にあるとき、この誘惑を断ち切り、最低限の誠意を見せ、「幸せになってくれ」ときっぱり諦めることは、そんなに簡単ではないかもしれない。そうも思う。

 悪魔は成功の頂点にやってくる。それは、アカデミー賞の授賞式でウイル・スミスがビンタをお見舞いしてみせた後で、デンゼル・ワシントンが言ってきかせた言葉だそうだ。ウイルは、悪魔の囁きに唆(そそのか)されているというのだが、おそらくは市川崑ももまた、同じ悪魔に唆され、有馬稲子との関係の継続を続けてしまったのではないだろうか。

 相手にビンタをくれてやることも、嫌がる相手に関係の継続を強いることも、どちらも「成功」がなければむつかしい。成功があるから、暴力を振るうこともできるし、自分に好都合の関係も強要できる。そんな「〜できる」力をイタリア語では「potere」(権力)と呼ぶ。英語の「power」(権力)も同じで、アングロ=ノルマン語 poeir に由来し、語源的にはラテン語の posse(= potis + esse [ = be able])にさかのぼる。

デンゼル・ワシントンの「悪魔の誘惑」とは、ひとたび「権力」を握った人が、その権力を振うように誘惑されることだ。精力があり、地位もあるということは、ビンタだって食らわせてやることも「できる」し、好きな女を自由にすることだって「できる」。この「〜できる」が「potere」(〜できること)であり「権力」なのだ。

 たしか村上春樹の小説に「チェーホフの銃」という表現があった。記憶が正しけえば『1Q84』だと思う。物語に銃が登場すれば、その銃は撃たれることになる。そんな法則があるというような話だった。これも同じことを言っている。銃は撃つことが「できる」。その意味で「potere」(〜できる/権力)なのだ。しかし、銃が登場しても撃たれることがないような、そんな物語は不可能なのか。そんなことはない。それが村上春樹の挑戦だったのではなかったか。

 同じことは、アガンベンが「潜勢力」という言葉で説明してくれている。「〜できること」を「potenza」あるいは「潜勢力」とすれば、それには二種類あるという。ひとつは「〜できるようになる」ということ。まだ小さな子どもは未来に可能性を秘めている。そういう意味での潜勢力だ。もうひとつは、すでに「〜できる」ようになってが使わないでおく、という意味での潜勢力。

たとえば法律の運用を考えてみよう。法は罪を犯せば必ず罰を与えるものではない。軽犯罪などしばしば罪に問われず放置される。法は自らを適応しないこともできる。この「〜しないこともできる」というのが「potenza」のもう一つの在り方だというのだ。

 それはこういうことかもしれない。チェーホフの銃は、銃だから弾を撃つことが「できる」。そんな銃があれば、つい撃ちたくなってしまう。暴発させてしまうかもしれない。そのままだと、やがて実際に撃ってしまう。撃ってしまえば、誰かを傷つけるかもしれない。殺してしまうかもしれない。こうして、実際に撃ってしまう事態を、潜勢力に対して「現勢力」(energeia)と呼ぶならば、もう一方には銃を撃たずにすませることもあるはずだ。なんとか撃たないでいられるのなら、誰かを傷つけたり、殺したりしなくてもすむではないか。

銃を撃つことに抗い、撃たない状態に立ち止まることような力、たとえ「できる」としても、その「できる」ことをしないでおくような力、「〜しないことができる」力、つまり「現勢力へと向かう運動において潜勢力を引き止め留めるこの能力」を、アガンベンは「非の潜勢力」(a-potenza)と呼ぶ。

 だとすればどうだろう。デンゼル・ワシントンが語った「悪魔の誘惑」とは、この「非の潜勢力」をなおざりにするべからず、という戒めではなかったのだろうか。あるいは「チェーホフの銃」に対する村上春樹の「抵抗」もまた、同じ「非の潜勢力」ではないだろうか。世の「ウイル・スミス」たちが身につけるべきは、できるビンタを「しないことができる」力であり、世の「市川崑」たちにとっては、言いなりにできる相手を言いなりに「しないことができる」力なのかもしれない。

 ぼくらが肝に銘じるべきは、「〜できる」というのが「悪魔の誘惑」であることだ。だから学ぶべきは、その誘惑に引き寄せられることなく、その場で「なんとしても立ち留まる/抵抗する」(resistere)こと。しかし、「悪魔」はその度ごとに別の姿で現れる。それにどうやって抵抗すればよいのか。

たぶん「悪魔」とは「言葉」の「潜勢力」なのだろう。ぼくらがひとたび言葉を「〜かたることができる」ようになると、ぼくらはだれもが悪魔の誘惑にかられてしまう。そうことではないのだろうか。言葉を自在に操り、大人になることは、言葉の潜勢力として、さまざまな言葉の影に隠れている悪魔と出会う機会が増えることでもある。

 なにしろ言葉は、魔法のように世界を思い通りに作り出せてしまう。まさかと思うだろうけれど、ぼくらはそれを言葉を話し始めた小さな子どもの頃からやってきたではないか。どうやって。簡単さ。嘘をつけばよい。学校に行きたくなければお腹が痛いといえばよいし、大学生ぐらいだと親戚の葬式があったことにすればよい。好きでもない人に好きだといってもよいし、なんなら明日世界は終わるというのだって、うまく使えば効果があるかもしれない。嘘は人を感動させたり、泣かせたり、怒らせたり、ときには自由自在に操ることさえできる。なぜなら言葉には「嘘の潜勢力」があるからだ。

 そんな嘘に抵抗するにはどうすればよいか。小さい頃から言われてきたではないか。嘘をついてはいけませんと。でも、嘘ではなくても人を傷つけることがある。本音を言えば喧嘩になることなんてざらなのだから。嘘ではないのだから、人を傷つけても良い。そう思ったのだとすれば、おそらくそこには悪魔が潜んでいる。おそらくは、言葉にひそむそんな悪魔が、あらゆる悪の発端にある。言葉さえなければ、いくつもの悲惨な出来事は決して現れなかった。そうではないだろうか。

 言葉には悪魔が潜んでいる。その悪魔を払うにはどうすればよいか。仏教にはたしか「正語」という表現があった。言葉は正しく使わなければならない。それはそうだ。では、どうすれば正しく使えるのか。何が正しいのか。これは考えれば考えるほど複雑で、ぼくにはよくわからない。それでも、今ひとつだけ言えるのは、少なくても「〜できる」という《潜勢力》と、「〜しないでおくことができる」という《非の潜勢力》の区別がヒントになるかもしれないということ。なにしろ、ぼくらは言葉を話すことが「できる」のだけれど、同時にその言葉を話すことを「しないでおこくこともできる」のだから。

 そんな言葉を正しく話しながら生きることって、もしかすると、人生を自転車に乗って走ることに似ているのではないだろうか。ぼくらは自転車を欲し、与えられ、喜んで漕ぎはじめたのだ。凸凹道ではバランスをとり、舗装された道も注意しなければ小石につまずいてしまう。下り坂では休めても、上り坂では休めない。漕ぐのが嫌なら降りてよい。けれど人生の自転車を降りることは、人生から降りること。2度と乗ることができない。

 それでもいつかは誰にでも人生から降りるときが来る。少なくともそれまでは、楽しかったり苦しかったりする自転車を、うまく漕ぎ続けるほかない。漕いだり、漕がなかったり、できることしてみたり、あえてしないでおいたり、うまくバランスをとりながら。