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経験13年・ブランク20年。打楽器を始めてやめて再開するまでのお話・その5 - Change My Career -
その4はこちら。
前回は割と決死の告白だったつもりですが、反響は一連の記事の中で最も薄かったですww。アンサイクロペディアというネタサイトに「魂を込めて書いた記事はまずスルー」という身も蓋もない記事があるのですが、まさにそれを食らいましたと。
それはさておき。今回から見出しを付けてみます。
1.横浜から来た宇宙人
1994年の4月某日。その日は大学の部活動・サークル紹介があり、いろんなサークルや部がある中、小さく「吹奏楽部」という文字があるのに気づき、吹奏楽部の紹介エリアに行ってみました。
「・・・へ?」
何十人も部員が居そうな吹奏楽部の紹介エリアなのに、そこに立っていたのはたったの1人。「ここって吹奏楽部でいいんですよね?」と聞いてみたら、「はい」と。そして・・・
私:「なんで1人だけなんですか?」
先輩:「本体は野田校舎のほうです。私は神楽坂から通っています」
野田校舎は神楽坂校舎から1時間、そして横浜の自宅からはなんと2時間半かかる距離。千葉在住だったらともかく、自宅とは逆方向にある活動拠点。普通だったら少なくとも行くかどうか迷うシチュエーションでしたが・・・
「それなら、野田に行ってみたいです。いいですか?」
即断でその先輩にお願いしました。理科大の吹奏楽部員になることが決まった瞬間です。
数日後。自前の練習用スティックを持って野田校舎に行ってみると、1学年上のS先輩が出迎えてくれました。「とりあえず机叩いて適当に個人練習やってて」と言われたので、その通りにしてみたら・・・
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「え、え、何この人??!!Kさ~~ん!!!」
このS先輩は、大学入学後に初めて打楽器を始めた初心者の方。この人がびっくりして呼んだもう1学年上のK先輩と言う方がパートリーダーだったのですが、この方も大学から始めてまだ2年ほどの方。そんな環境に私みたいなバックボーンを持つ人が突然来て何食わぬ顔でルーディメンツを叩いている姿は、宇宙人みたいに見えたのかなあと思います。
当然、一気にまわりは歓迎ムードになりました。
そして、少し後に楽器を保管している部室を見させてもらったら・・・
「・・・持ってる楽器、これだけ???」
ほっといてもヤマハから楽器が支給されていた関東学院時代とは真逆の風景がそこにはありました。「どこかのゴミ捨て場から拾ってきた」と噂されるほどのボロいドラムセット、塗装があちこち剥げていてヘッドを強く張れず、ベコベコの音がするスチール製コンサートスネアドラム、あちこち傷だらけで裸で置かれていたコンサートバスドラム、グロッケン(鉄琴)しかない鍵盤楽器、ティンパニに至っては姿形が全く見えず・・・小物楽器は多いものの、大半が4年生の某先輩の私物。
でも、これが「普通の吹奏楽団体」なんですよね。
理科大吹奏楽部は、ほぼ部員から集める部費だけで運営しないといけませんでした。だから、定価が何十万~百万にもなる鍵盤楽器やティンパニやドラムセットなんかそうそう買えないし、指導の先生方に謝礼も払わないといけない。中・高ならまだ学校から活動費が支給されるし音楽の授業でも使うことがあるので多少は楽器を揃えられるけど、理科大は部活動には年間10万しか支援してくれない(注:当時の額)し、音楽の授業もない。
メンバーの価値観も、関東学院時代とは天と地の差。M協の全国大会で日本一になる事を目標にしていたところから、吹奏楽コンクールは「出ている」程度であまり重視せず、定期演奏会でほどほどに演れれば良いかと言う価値観を持つ人達と一緒にやることに。このギャップには少し苦しみました。
ですが、こういうところでリスタートするのも一興かと思い、次に取った行動が「myスネアの購入」でした。親に7万ほど借りて、ヤマハのメイプルのコンサートスネアドラムを購入。このスネアを相棒に、理科大吹奏楽部員としての生活をスタートすることになりました。
2.キャリアチェンジ
・・・が、この直後、今思えば物凄い分岐点になった出来事がありました。
ある日、家に電話がかかってきたので出てみたら・・・
「あべくん、久しぶり。〇〇だけど、今私インスパにいるの。今どこにも所属してないなら来ない?君ならオーディション受けなくて良いから」
なんと、The Yokohama INSPIRES(通称インスパ)というマーチングの一般団体から、入団の誘いをいただいたのです。誘い主は、日枝小時代の1つ上の女子の先輩。彼女は鎌倉女子大付属中高に進み、そこで活動した後、インスパに入団していました。私が高校を卒業してマーチングバンドがない大学に進学したことを知り、誘ってきたのです。
インスパは今でこそ天理愛町マーチングバンドと創価ルネサンスバンガードという2つの宗教系団体の後塵を拝していますが、当時は2年連続で一般部門で全国大会グランプリを取っていた日本一のドラムコー。例年4月にオーディションを行っている団体なのですが、その中の人から「オーディションは受けなくて良い」とまで言われたオファー。
もし中学時代の私が後ろで見守ってたら、「こんなの迷うまでもない、即答じゃん!」と騒いでいたことでしょう。
が、その即答の内容は、「もう理科大吹奏楽部に入ったのでごめんなさい」というものでした。当時のマーチングシーンを知る人だったら100人中100人が「ありえない!」と言うだろう選択をしたのです。
断った理由は3つあります。
1つ目は、もう理科大吹奏楽部に入っており、そこを通じて外部の楽団にエキストラで出演する予定が直近で決まっていたこと。
2つ目は・・・
地元「横浜」から離れたところで、打楽器活動をやりたかったのですね。
スネアドラムに関しては、同年代の誰にも負けない自信はありました。右足首が中高時代に少し変形していたこともあり歩くのは不得手だけど、手はめちゃくちゃ動く。しかも右利きなのに左手のほうが強くて安定してるというレア属性もある。
しかし、インスパに入ると、必然的に活動拠点が横浜市中心になるし、ジャンルもマーチング一本やりになる。したがって、M協の大会や複数のマーチング団体が出場するイベントなどで「二度と会いたくない知り合い」に遭遇するリスクを得てしまうことになる。
それが嫌だったのです。ちなみにこの1か月前、高校から系列大学に進学された某先輩と偶々会い、「本番だけでいいから大学マーチングに来てくれないか」と言われましたが、この時も「足壊してるので」と断ってます。
また、ほぼ同じ時期に「DCIに出てみないか」という話もありました。とは言ってもトップクラスの団体からの招聘ではなく、東京実業高校のOBバンド(現「Tokyo Phoenix」)の一員として下位レイヤーの大会に出ませんか、という話だったけど。この時は興味すら示しませんでした。私、海外志向ゼロだったのです。
そして3つ目は、私、実は趣味については「誘われて始める」ことをしないんですよね。誘われると断る。でも、これはと思ったら自分から手を挙げて強引にでも入っていく。長続きできたのはこういうのもあったからかな。
じゃあなんで吹奏楽だったかというと、これは単純で「管弦楽よりは打楽器の出番が多そう」だと思ったからです。
マーチングスネアは10分の演奏時間で2000~3000打くらい(ロールを除いた回数で)普通に叩きますが、管弦楽ではスネアがそもそもないとか、あっても10分間で100打もないとか、そんなのばっかりです。
あるDrums教室のコラムで「手の動きはマーチングスネアの達人にはかなわない」という記事がありますが、理由はこの「打数がとにかく多い」ことに尽きます。手の出番と経験値が桁違いなのです。特に左手の打数はシンフォニック系打楽器は言うに及ばず、どのジャンルのDrumsよりも何倍も多い。と言うより打数は左右ほぼ同じです。それを生かせないのは嫌でした。
吹奏楽なら、まだ管弦楽よりは経験を生かせるかな?と思ったのです。
あの時インスパに行く選択をしてたらどうなったんだろう?とは思います。もしそうしてたら、私のFacebookの友人の4割弱を占める理科大吹奏楽繋がりの方は全員入れ替わっていただろうし、その後の人生も今とは全然別物になっていた可能性は極めて高いです。より高みに行っていたか、トータルではあまり変わらないか、更なるドツボにハマったかは、分からないけど。
ただ、当時の選択は後悔してません。それどころか2か月前まで忘れてましたw。今年になって知り合った方から「息子がインスパに居たことがある」と言われたのをきっかけに思い出したのです。
マーチングは、生涯の趣味にすることが難しい音楽です。なぜなら、世界最高峰の大会であるDCIに年齢制限があり、必然的に22歳以降は最大目標が無くなってしまうこと、体を酷使することからシニア年代まで演技を続けることが難しく、活動できる団体もほとんどないからです。
従って、22歳を過ぎた後は、ルーディメンタルドラマーの石川直氏のようにソロプレイヤーに転身するか、指導者になるかの二択しかありません。日枝小の恩師だった高橋先生も、日枝小に来た時はまだ30歳をちょっと過ぎたばかりでした。
結果的に、吹奏楽に鞍替えしたことで、40歳を過ぎたこのタイミングで現役復帰が可能となったのです。
今回は、大学入学後の1か月間の記述だけでしたが、明確なキャリアチェンジをやり切った時期でした。いったんここで切り、次回は理科大吹奏楽部員としての姿を記す予定です。続けられれば。。
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