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経験13年・ブランク20年。打楽器を始めてやめて再開するまでのお話・その4- I'm Battered... -

その3はこちら。

今回は、高校最後の1年間の話。

最初に断っておきますが、この回はネガティブな話が中心です。書こうか迷ったのですが、この時期について書かないと、大学以降の話に繋がっていかないので、極力誰も悲しませないよう、気を付けて書きます。

高2の全国大会が終わった後、高3の夏にオランダのケルクラーデというところで4年に一度行われる「世界音楽コンクール」(Wereld Muziek Concours in Kerkrade:WMC)に出ることになり、それに向けた猛特訓をしていました。ちなみにトップ絵はこの大会に出た別団体のものです。

WMCは出場メンバーの縛りが緩かったため、OBの方やADの方のツテで来た外部の方がエキストラとして参加していました。その中の、マルチタム担当の女性のエキストラの方と気が合って仲良くなります。そしてエキストラの方が来る毎週土曜日になると練習の休み時間の度につきまといに行くという「女教師に張りつく小学生」みたいな日々を送っていました。

・・・裏で、いつ引退するかという交渉を、周りとしながら・・・

部員急減の影響で後輩育成に苦しんだという事象が、私の引退時期を決めるにあたっての障壁と化していました。

本来なら、WMCが終わったら、その直後に予定されていた大分の野球場での招待演奏を最後に引退して大学受験勉強に専念。その年度のM協の大会と12月の定期演奏会には出ない、というコースでした。しかし、後継者が育っていないため、私が抜けるとスネア担当はなんと中1の新入部員2人と、系列の大学に内部進学することが決まっていたPIT担当の同期をスネアに回してしのぐという状況になってしまう。

間の層もほとんど居なく、スネア担当は0人。伊地知氏の後にスネア担当になった後輩が1人居たのですが、その人もグランプリを取った全国大会までは一緒に出たものの、その後辞めてしまいました。その結果、私が高3になってもスネアの後継者はゼロ!

これは前回紹介した国際仮装行列出演映像の高3版(一番最初の団体)なのですが、スネアがなんと2人しかいません。右側が私で、左側はADの方。つまり現役学生のスネア担当は私しか居なかったのです。

そんな状況で受験で居なくなるのかと、卒業した先輩達やADの人から毎週のように責められる状況が発生していました。

後継者を育てられなかったのは確かに私の責によるところもありました。部員勧誘はあまりできなかったし、入ってきた後輩に対しては自分がされたようなスパルタ教育は一切しなかったものの、相手のレベルを考えずに指導しようとするという癖があり、後輩には成長感よりも自信喪失感を与えてしまっていたきらいがあります。

また、私は「辞めたい」という人を引き留めることを一切しませんでした。これは「辞めるのも続けるのも人の勝手だから、干渉してはいけない」というポリシーがあったからですが、上述の後輩が私に退部の相談をしてきた時は、まだ悩んでる節がありました。この時強く引き留められていれば、その後の状況はだいぶ変わったかもしれません。

だから、あまり先輩達に強く出ることが出来ませんでした。

「こんな状況になる前にお前がさっさと中学のうちに辞めていれば状況は変わっただろうよ」とまで言われたこともあります。「大学なんてどこ言っても変わらないし、1年浪人してもいいんじゃない?」というかなり無責任なことを言われたこともあります。

高3の前半は、入れ替わり立ち代わりいろんな人にこの類のフレーズを言われて嫌気が刺していながらも、毎週土曜日に来てくれるエキストラの方にくっついてヨタ話をすることで精神のバランスを保っていました。

そんな中、WMCでは猛練習の結果パレード部門・ショー部門の両方で「1位」(本当の1位ではなく、金賞相当)という結果を得ることが出来ました。ショー部門は「審査員特別賞」というオマケつき。

ケルクラーデの陸上競技場のフィールドで、演技途中でスコールに見舞われながらも2万人の観客に向けて演技をやりきり、最後は満場のスタンディングオベーションを浴びて満足感に浸りながら空を見上げた記憶は今でも鮮明に残っています。

これはその遠征時の写真です。左から2番目の方は真島俊夫氏です。当時は「フランクで曲のアレンジが上手いヒゲオヤジ」扱いしていたのですが、それがめちゃくちゃ失礼な扱いであったことを大学に入ってから知りました。真島さんすみません。

で、高3の前半が終わり・・・

結局、そこでスパっと引退は出来ず、10~11月のM協神奈川大会・関東大会と12月の定期演奏会まで部活に残ることになりました。センター試験の1か月前まで残ったのです。

ただ、予備校に通いながらとなったため、それまでの「毎日練習」から、「週の半分だけ顔を出してヘルプ的に参加」という状況になりました。

その間も「やっぱり考え直したか?」とADの人やOB達から言われ続けたため、最後のほうはモチベーションがほとんどなくなり、一刻も早く定期演奏会を終えたいという心境に変わっていきました。もう義務感だけでやってました。WMCが終わったので、エキストラの方もいません(しばらく文通はしてたけど)。練習に行っても、後輩の指導以外ほとんど誰とも会話しない日々が続きました。

そのせいで、普通の人なら一番記憶に残っているはずの「引退年の定期演奏会」の記憶がほとんど残っていないのです。

この5年9か月間で得られた勲章を並べてみます。

①M協全国大会に4回出場し、すべて金賞以上、うち1回はグランプリ
②高3時にWMCに出場して金賞獲得
③その全てでスネアドラムを一貫して担当

高校サッカーに例えたら、優勝校で10番をつけていたレベルです。もちろんこれは私自身の功績と言うよりは団体の功績なんですが、6年前に憧れた事に対する結果としては、これ以上ないと言えるものでした。

しかし、その最後の姿は、あまりにも・・・バッテリープレイヤーが「Battered」(疲弊)してしまった、終わり方でした。

まあ、全部私の不徳の致すところで力不足でしたと言えばそれまでです。優しさと技術はあったかも知れないけど、指導力はなかった。それが招いた事態であることは確かです。人の表情を見るスキルも欠けてたし。

で、受験のほうは、1か月後のセンター試験は大撃沈したものの、そこで一念発起して猛勉強し、奇跡的に東京理科大に現役合格します。コツコツ型ではなく瞬発人格豹変型の私の特徴がよく表れた受験シーンでした。理科大は第二志望だったのですが、この1年間の体たらくを考えると十分すぎる成果。「1年浪人してもいいじゃない」と言ってきた先輩方にリベンジが出来たとこの時は少し思いました。

そして大学に進学。理科大にはマーチングバンドなんてあるわけがなく、打楽器活動を続けるのなら、入学した理学部のある神楽坂地区で管弦楽団に入るか、軽音楽部に入るか、家から2時間半かかる千葉県の野田校舎まで行って吹奏楽部に入るかの三択。いや、それとも?

続きます。

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