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経験13年・ブランク20年。打楽器を始めてやめて再開するまでのお話・その3- Getting Glory -

その2はこちら。

説明が遅れましたが、私の打楽器経験の大半はマーチングパーカッションです。ですので、吹奏楽・管弦楽と言ったシンフォニック系の方にとっては「良く分からない専門用語」が結構出てくると思います。

とりあえず、以下を憶えていただければよいかと思います。

マルチタム(テナードラム):タムを複数括り付けてミニチュア版ティンパニのようにした楽器。近年は6個つけるのが主流。見た目の派手さは一番だが、体への負担も一番。今は軽量化が進んだが、昔は20kgを超えていた時期も。
②バッテリー:元は打楽器全般を「Battery」と呼んでいたが、マーチングの世界ではスネア・バスドラム・マルチタム・ペアシンバルという「リズム担当」の総称。PIT楽器は含まない。
③PIT:鍵盤楽器・ティンパニ・サスペンドシンバルなど、フロアに置いて立奏する打楽器の総称。PIT担当はドリルには参加しない。
ドラムコー:打楽器と金管楽器のみで編成されたマーチングバンドのこと。クラリネットなどの木管楽器は入らない。Wikipediaでは3種類の定義が書かれているが、「ドラム・アンド・ビューグル・コー」がもっとも一般的。関東学院の場合、SAX・フルートは居たがクラリネットは居なかった。
DCI(Drum Corps International):米国のドラムコー大会。世界最高峰の大会と言われ、ドラムコー・マーチングバンドの人達の目標である。ただし「Corps」の名がついている通り「青少年の教育目的」の大会でもあるため、開催年の6月以前に22歳以上の年齢になる人は出場できない。

さて本題。

苦しんだ中学時代が過ぎ、高校に進学すると、周りからだいぶプレイヤーとして信頼されるようになり、パワハラを食らうようなことはほとんどなくなりました。もう「ここでは下の下だ」とまで言われた私の姿はそこにはなく、自信を持ってスネア演奏できる日々が訪れるようになりました。

高2(1992年)の5月3日に出た国際仮装行列の動画をアップしてくださった方がいらっしゃったので紹介します。

スネアの一番右の人(マルチタムの左隣)が私なのですが、中学時代はとにかく落ち着いて演奏することができなかった私が、この頃は堂々と落ち着いて叩いています。特に左手がやたら強く、右利きであるにもかかわらず握力は右手より左手のほうが強くなってました。多くのドラマーやパーカッショニストが苦しむ「左手の鍛錬」が完了していたのです。

左手が強くなった理由ですが、良く分かりません。左手でご飯食べるとか歯を磨くとかのよくある訓練方法はほとんどやってませんでした。あえて言えば、中3の時に自転車で転んで右手甲を亀裂骨折して3週間ほど左手一本で生活していたのが効いたのかも。

一方、後輩の育成には苦しみました。

私が入学した年度あたりから学校全体が「進学校を目指す」という教育方針に変わった影響で、スパルタかつ練習が大変で学業に悪影響を及ぼすという悪評が下級生とその父母に蔓延。その結果入部者数が激減するという事象が私の代から起きていて、私の1つ上の代までは高2になっても20人くらい部員が居たのですが、私の代は中1の入部時点で15人しかおらず、高校進学時点で生き残っていたのはわずか6人、その下の代も気づけば生き残りは1桁という状況が4学年分も続きました。

入部人数が回復したのは私が高2になってから。この間に120人以上居た部員が80人くらいまで減ってしまったため、私が高1の年度(1991年度)から中1もM協の大会に駆り出されるようになっていました。

この事が高3で引退する時に悲劇を生むのですが、それは次回で。

なお、この時期の「中学のうちに辞めた人」の中に、その後有名になったドラマーが1人います。「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のDrums、伊地知潔氏です。彼は私より2学年下で、中1の後半からスネアに配属されて一緒に練習もしていたのですが、センスが良く、そのうち私を追い抜くんだろうなあと思っていました。彼も中2の途中で辞めてしまいましたが、その後別の道で私を思いっきり追い抜いたので当時の予感は当たってはいます。

本人も黒歴史扱いはしてないようですね。これ見る限り。

(2019/1/28追記)
1/27の母校100周年イベントで再会を果たしました。彼にスネアのダブルストローク教えたのは私らしいです。

さて、私が入部した年度までの関東学院は「ドラムコースタイルの一般曲」を集めてM協の大会に出ていました。しかし、1989年度から吹奏楽界のレジェンド真島俊夫氏(2016年に逝去)を大会向け楽曲アレンジャーとして招聘し、ミュージカルスタイルの演出に舵を切ります。

真島氏は、管楽器に関しては誰もが「これが完成したらグランプリ取れる」と言わしめる素晴らしいアレンジをしてくださりました。一方で、打楽器に関しては「この譜面、簡単すぎない???」とバッテリー担当全員が不安がるくらいの「打数が少なすぎて見どころがないアレンジ」になってしまい、広岡先生とADの方が再アレンジするという副作用も起きてました。

当時ホルン担当の同期に「なんであんなアレンジなんだろう」とぼやいていたのですが、「あの方はブラスアレンジャーだから」となだめられました。後で思えばそりゃそうだなあと。

この方針転換はそれまでDCIの劣化コピーでしかなかった日本のマーチングシーンにかなりのインパクトを与え、その翌年度以降、天理高や鎌倉女子大付属などの他の強豪校も追随するようになりました。

M協の大会では常に天理高に一歩及ばない状態が続いてましたが、その方針転換が目に見える結果として最初に出たのが、高校1年の全国大会。

この時は、フランク・シナトラの「New York,New York」やアイリーン・キャラの「Flashdance」など、1980年前後の米国映画テーマソングのアレンジで臨み、その世界観を見事に表現。採点結果は、出場団体の中でトップ。出場待機中に反則があったため減点されグランプリ獲得はならなかったものの、採点トップという結果はそれなりに自信になりました。ちなみに前回記事で紹介したトリックは、この大会でやったものです。

そしてその翌年、私の最後のM協全国大会出場年。1993年1月のあの日。

この年は、「アランフェス協奏曲」と、Chick Coreaの「Spain」を中心としたスパニッシュミュージカルをテーマとした演目を行いました。

その演目の出だしは、私がスネアを担ぎながらフラッパー(持ち手付)カスタネットを振り、他の打楽器メンバー全員がワンテンポ後で同じカスタネットで追随してくるというシーン!

私がこけたら出オチになるという、強烈なプレッシャーがかかる役目・・・


で、無事カスタネットのリードはやりきったのですが、その後少し集中がほどけたのか、1曲目の途中でスネアのスティックが急に跳ねて床に落としてしまうというハプニングをやらかしました。それでも、「あー飛んでったー、はいはい」と瞬時に予備のスティックを取り出して2秒で演奏に復帰。

最初のカスタネットといい、私とは思えない落ち着きぶり。今思うと私ではない別の誰かが憑依してましたね、多分。

ちなみにスティックは2曲目の途中でドラムメジャー(フロアの指揮担当)の同期が拾ってPITエリアの小物台に避難させてくれました。このスティックを落とす→メジャーの人が拾う→避難させるという流れがあまりにもスムーズに客席から見えたらしく、後で「スティックを落としたのも演出だった」「メジャーの人を綺麗に見せるためにわざと落とした」とか言われましたw

※2019/3/25訂正:スティックは届けたのではなく、小物台への避難でした。上の動画の5:14あたりでスティックが拾われています

そんなこんなで演技をやり切り、閉会式に。

M協の全国大会は、グランプリを発表する時に、獲得団体の演技の冒頭の録音を流して何処がグランプリになったかを知らせるという演出があります。私も他の部員と同様にドキドキしながら発表の瞬間を待ってました。

「グランプリは・・・・・・・・・・・・・・・」

『・・・・・カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ』

これは、俺のカスタネットの音だ!!!

周りの同期達と狂喜乱舞。鼓笛隊のバスドラムから始めて8年、関東学院に入って5年。小学時代に憧れた「スネアドラム」担当として、最高の結果を得られた瞬間でした。感動で泣くタイプではないので涙は出なかったですが、長年の苦労が報われたと思いました。

このために、いままでずっと耐えてきたのだから!

ただ、戻ってから先輩に「全国大会でスティック落とす人は初めて見た」と釘刺されましたがね。トホホ。でも事実だから仕方ない。

また、この時の採点は93点台と、グランプリ獲得団体としては異例の低さでした(通常年は95点は超えます)。ライバルの天理高が演技ミスを犯し、この翌年からマーチングシーンを席巻する「西原高等学校」は演奏が粗すぎて採点が伸びず。その狭間を塗った「運で取れたグランプリ」であったことは否めません。ただ、前年度が不運すぎたのでそのお返しかな。

この時期は、私の全盛期と言えました。

ですが、全盛期は、衰退の始まりでもあります。

以降、たぶん続く。


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