【神奈川県伊勢原市】伊勢原日向の石雲寺へ大友皇子の墓参り 23.09.17_09:20
最近の歴史の教科書っていうものは、しれっと書き換えて当たり前のようにしているところがある。
若い頃、習ったことが当たり前のように覆るから歴史好きはうかうかしれいられない。
歴史学者は恥ずかしく思わないのだろうか?
学校の先生なんていい加減なものだ。
言われたら言われたまんま、教育に理念がない。
昔、壬申の乱といいうものがあった。
大化の改新の天智天皇が後継者の擁立に失敗した事件。
天智天皇の第一皇子大友皇子は、叔父の大海人皇子に敗北、縊死したというもの。
以前はそんな話だったはずが、最近、大友皇子は弘文天皇として即位済みだったという話になっている。
天皇の軍が反逆軍に負けたことにする訳にはいかないという配慮だったという話もある。
権力者の立場次第。
歴史なんてそんなものなのかもしれない。
弘文天皇こと大友皇子は死なずに落ち延びたという説もある。
死んだことにしてもらわないと、天皇の継承に都合が悪かったからじゃないの?とも思わざるを得ないし、天智天皇の子供を逃してやりたくなる気持ちもわからないわけではない。
落ち延びた伝説がある地は、愛知、岐阜、千葉など東国に多い。
壬申の乱で東から攻めてきた勝者の大海人皇子と入れ替わった形だ。
伊勢原日向にも大友皇子の墓と伝わる陵がある。
近江、遠江のそのまた向こう、相模国という距離感は、人を隠すにはちょうどよかったのかもしれない。
日向には半島を逃れた渡来人も入植していたらしい。
渡来人は天智天皇に恩義があったらしいので、従者として・・・そういう関係にあったと思うことも出来る。
大山の裏街道の地に、ひっそりと暮らす集落に残る伝承。
信じたくなる気持ちも・・・少しある。
そんなことを、帰る途中何食べよう・・・と同じくらいに考えた。
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