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腹囲が気になる福井の旅 丸岡藩本多家歴代藩主の墓 本光院 19.11.25 12:18

坂井市の住宅街、丸岡城の城下町に本光院という小さなお寺がある。

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丸岡城は、戦国時代柴田勝家の養子である柴田勝豊が築城し城主をしていたが、本能寺からの清州会議後、秀吉の所領であった長浜を柴田に編入。その折に柴田勝豊は長浜城の守備を任されたにもかかわらず、長浜城ごと秀吉に寝返るという離れ業に出る。
結果、前田利家などの裏切りもあり、賤ヶ岳の戦いで破れた柴田勝家は、福井北ノ庄城でお市の方共々自害。一族滅亡と相成った。
その後紆余曲折の後、徳川時代になり、福井に入った結城秀康の重臣が丸岡を治めるが、主家の内紛に巻き込まれ流罪。その後丸岡藩は独立し、鬼作左と異名をとった本多重次の子、本多重成が4万石で城主となるが、四代重益が藩内の内紛のため幕命により改易とあいなった。

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そんな初代丸岡藩の藩主、本多家の菩提寺が本光院で歴代藩主の巨大な墓石が立っている。
歴代藩主と言っても、丸岡藩主となる前の成重から、三代重昭までの墓石が四基で改易の張本人の墓はないという虚しさ。当然といえば当然だが。
延べ80年余りの本多家の支配。本多家の菩提寺が本光院って名前もなるほどそういうことかと思ったりして。

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本光院も元はもっとお城に近い 石城戸町白道寺というところにあったそうなのだが、本多家改易後、新しい城主有馬家の菩提寺である白道寺に寺領を譲って今の場所に移った。五輪塔もその際に移された。
土葬の時代、骨はどうしたのだろうか?それとも墓は別な場所だったのだろうか?本多家も改易にはなったがお取り潰しにはならず旗本として生き残ったらしいので、無下にもできなかったのか?
急造城主はあまり民から慕われていなかったような感じに受ける。今、丸岡の街自体は一筆啓上で町おこしを行っているが、それとて初代藩主のオヤジの話。無関係とまでは言わないが、改易の地丸岡がすることだろうかと不思議にはなる。

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立派な五輪塔を崩すのが惜しかったのかな?
今立っている墓石の向きも移転時の後決めなわけで、そう思うと本多家との関係の薄さは否めない。
三河三奉行とまで言われた本多家も代が変わるごとに劣化していったとは。トホホ。

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あっちに気を使い、こっちに気を使い、江戸時代を生き抜いた藩の努力って大変だったんだろうな。ただ、そういう連中も侍。侍の定義ってなんなんだろうか?








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